第1回「生命軽視の原因(1)〜進化論的生命観」
日本では進化論が当然の科学的真理であるかのように受け取られています。それが本来、一つの科学的な推論に過ぎず、十分な物的証拠がないにもかかわらずです。創造者である神様を除外して、この地球上に多様な生命が存在する事を説明しようとすれば、進化論という学説を選択せざるを得ないということでしょう。
進化論は元来、科学的な仮説ですが、人間の心に真理として定着するなら、それは一つの思想、哲学となります。進化論の原則で人間という存在を考えれば、それは進化論的人間観となります。進化論の理念で社会をとらえるなら、それは進化論的社会観となります。そして、人間の生命を、進化論を前提に理解しようとするなら、それは進化論的生命観となります。
そこで、今回、取上げたい事は、この進化論的生命観です。進化論にあっては、すべての生命はひとつの数直線上に配列する事ができます。一番、左端にはアメーバーのような単細胞が位置するでしょう。少し右には魚類、さらに右には爬虫類、もっと右には哺乳類が置かれるでしょう。そして、やがてサルがいて、最も右には人間が置かれるのです。つまり、単純なものから複雑でなものへ、単純な構造の生物から、より高度に組織化された生物へという方向で配列されるわけです。
このような生命観がもたらすものは何でしょう。それは生命の価値の相対化です。すべての生命が一つの数直線上に位置するという事は、それぞれの生命は比較することができるということを意味します。すなわち、人間の命が他の生物の命とは絶対的に異質であるという生命観は成立しないのです。
たとえば、アメーバーと人間の違いは、細胞の数の違いと、その肉体上の組織や構造の複雑さや緻密さだけです。分かりやすく言えば、アメーバーと人間の違いは、ネジ一つと最新のコンピューターの違いです。単純と高度の違いだけです。
ですから、進化論が人間の心に真理として定着するなら、人間の命の尊厳は絶対化されず、相対化されてしまうのです。人間の生命は「ネジ一本よりコンピューターの方が価値がある」という程度の価値でしかなくなってしまいます。他の生物とは全く次元を異にする人間の生命の価値、人間の生命が持つ他の生物との絶対的な差異、独自の価値というものは失われてしまうのです。
「なぜ、人間を殺してはいけないのか?」「人間を殺す事とゴキブリを殺す事は何が違うのか?」そのような問いかけが社会を驚かせ、不安に陥れています。しかし、それは進化論的な生命観から導き出される当然の発言ではないでしょうか。「時計を壊す事とコンピューターを壊す事とは何が違うのか?」そう問われたら、「コンピューターの方が、時計より価値が高いから。」と答えざるを得ないでしょう。少年犯罪だけではないでしょう。人命さえ、金銭に換算して破壊する保険金殺人もそのような進化論的生命観のひとつの表現ではないでしょうか。
|