第2回「生命軽視の原因(2)〜死に触れる事なき生活環境」
「失って初めて分かるありがたさ」という世界があります。停電をすれば、電気のありがたさが分かります。断水があれば、水道設備がいかに恵み深いものかを悟ります。飢えを経験すれば、糧の価値を、貧しさを通過するなら、お金の大切さを知るでしょう。
同じように命というものの価値も時に、失って初めてわかるもののようです。命を失う、すなわち死に触れることによって、私たちは命の価値を実感するのではないでしょうか。ペットの死を悼み悲しむ中で、少年少女は命の尊さを心に刻むのかもしれません。家族や友人の死に触れるたびに、私たちは自らが生かされている事の価値を自覚するものです。死が命の尊さを教える。それは、私たちが人生の中で度々経験してきた真理であると言えるでしょう。
かつての日本社会は死に触れる機会が多かったように思います。何よりも大家族でしたから、家庭の中に高齢者がいました。高齢者は死に行く者、家族の中で死に最も近い者でありました。そうです。かつての日本では、家庭の中に死があったのです。その中で、子ども達も、祖父や祖母たちが死に行く姿に触れてはずです。たとえ、明確な自覚はなくとも、子どもは子どもなりに、心に死という現実と命の尊さを刻み付けたことでしょう。
ところが現代は核家族化が進み、多くの場合、高齢者は家庭の中にはいません。いたとしても、その高齢者は家庭の中で最後の生を生きる事は少ないようです。ほとんどの高齢者は病院や施設で、死の備えをし、死を迎えます。現代社会において死は家庭の中にはありません。それは、家庭から引き離された病院などの医療機関、あるいは高齢者施設の中にあるのです。
その中で現代人は死に触れません。「現実の人間の死に触れる事なしに生活できる」これが現代社会の特徴の一つでしょう。せいぜい触れるのは死を通過した後の遺体や遺骨だけでしょう。これでは「失って初めて分かるありがたさ」の世界は開かれません。
日常生活の中で死を忘れ、まるで自らも死ぬ事がないかのように生きている現代人には、生命の尊厳など実感のしようがないでしょう。死を忘れた現代人は同時に命の尊厳も忘れてしまったようです。聖書は死を自覚して学ぶようにと私たちに語りかけています。
「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに智恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)
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