第3回「生命軽視の原因(3)〜最先端の生化学が生み出した遺伝子還元論」
科学技術の飛躍的な進歩によって、従来には考えられないほど人間の生命に関しての研究が進んでいます。特に遺伝子に関する研究の成果は目覚しいものがあります。今や、遺伝情報を決定する箇所であるDNAを解読することができるまでになりました。報道されているように、現在は人間のDNAを解読するヒトゲノム計画が進行中です。そして最近、途中経過が発表されました。それによれば、人間の遺伝情報99,9パーセントは共通だということです。個人差は0.01パーセント以下の部分が担っているそうです。その分部に性別や人種、あるいは肉体的特徴、精神的気質などの個人差が情報として組み込まれているということです。
このように人間の生命が、科学的に分析される中で新たな生命観が生まれました。それは、遺伝子還元論と呼ばれています。人間という生命体は遺伝子に還元できるという考え方です。生命の本質を遺伝子とし、遺伝情報によって人間の生命全体を説明しようとするのです。人間の高度な生命活動も、一つ一つの遺伝情報に還元され、究極的には記号化されてしまうわけです。分かりやすく表現しますなら、山田君とは“AECDB”という記号の配列を意味し、田中さんは“BECDA”なのです。実際は、それが5文字の配列ではなく、何億という記号の羅列と組み合わせだということです。
ですから、その人間観を極めて乱暴に言ってしまえば、「人間とはDNAの自己表現、容器、あるいは運搬車」となるでしょうか。コンピューターのCD−ROMにインプットされた情報がモニター上に登場する人格、生命となります。基本的にそれと変らない人間観です。ただ、モニター上と異なるのは架空か、現実かだけの違いだけです。
そのような生命観に立つ時、どのような生命倫理が生み出されるでしょう。一律に語ることは許されないでしょう。しかし、ひとつの傾向として現われたのは、生命操作に対する積極的な評価です。すなわち、生命操作は人類や社会に益をもたらす限りにおいて、それは善であるという考え方です。
例えばアメリカには、現にノーベルベイビーが存在しています。アメリカでは家庭的、社会的、経済的に恵まれているなど、一定の条件があれば、ノーベル賞受賞者の精子の提供を受けることができます。そのようにして誕生したノーベルベイビーたちは、中高生の年齢にして既に名門大学の大学院に在籍中などという報道をテレビで見たことがあります。
ここで二つのことを考えなければならないでしょう。ひとつは、目的は方法を正当化するかということです。この場合、人類への貢献という目的は、生命操作という方法を正当化するかという疑問があります。
元来、生殖技術というものは家畜の生産性を向上させるために、始められ発展してきたものです。その技術を同じように人間に適用することは、果たして倫理的に許されるのでしょうか?人間が人格やその存在それ自体でなく、生産性や社会への貢献度で価値が計られるというなら、それは妥当でしょう。人間の価値が経済性によって数値化されることを是とする倫理に立つなら、生命操作は倫理的に正しいでしょう。しかし、人間の価値をその存在自体、あるいは人格に置くならば、ノーベルベイビーを生み出した技術への評価は逆転します。それは、よりよい肉質を求めて行われる牛の種付けや、より早く走る競馬ウマの誕生を期待して行われるウマの種付けと何ら変りはないでしょう。そう考えますと、人間に対しての生命操作は、人間の尊厳を破壊し、家畜にまで堕落させるものと評価すべきでしょう。
そして、もうひとつ考えるべきことがあります。それは、生命操作によって生み出されたノーベルベイビーは、本当に人類に益をもたらすのかということです。たとえば、ノーベルベイビーの中から21世紀のアインシュタインやリンカーンが現われたら、手段の是非を別にすれば、目標達成と言えるでしょう。ただ、そこには正反対の危惧があります。その中からヒットラーが現われないかという危惧です。ひとりの天才が飛躍的に人類の文明を発展させることは困難ですが、ひとりの天才が人類を破滅させるのは容易なことです。現代は、そのような時代なのですから。
あるミッション系の学校の入り口には次のような言葉が刻まれた石碑が建てられているそうです。
「神なき教育は賢い悪魔をつくる」。
ノーベルベイビーが将来の天才的悪魔とならないことを願ってやみません。
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