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いのちってどれほど大切なの? 聖書が語るいのちの大切さ
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聖書が語るいのちの大切さ
このコーナーの趣旨
  1. 生命軽視の原因(1)〜進化論的生命観
  2. 生命軽視の原因(2)〜死に触れる事なき生活環境
  3. 生命軽視の原因(3)〜最先端の生化学が生み出した遺伝子還元論
  4. 生命軽視の原因(4)〜生命に触れる事なき子どもたち
  5. 生命軽視の原因(5)〜子どもの生命観を形成する仮想空間
  6. 生命軽視の原因(6)〜命までも数値化する経済至上主義社会
  7. 生命軽視の原因(7)〜命を管理し序列化する教育現場
  8. いのちの尊厳、その聖書的根拠(1)〜神の似姿としての人間
  9. いのちの尊厳、その聖書的根拠(2)〜他の被造物との役割の違い
  10. いのちの尊厳、その聖書的根拠(3)〜神の交わりの相手として

  1. 命の尊厳その聖書的根拠(4)〜人にとっての交わりの対象
  2. 命の尊厳その聖書的根拠(5)〜殺人禁止の真意
  3. 命の尊厳その聖書的根拠(6)〜生産性を超えた生命の価値
  4. 命の尊厳その聖書的根拠(7)〜キリストの体の一部として
  5. 命の尊厳その聖書的根拠(8)〜数値化されない愛の故
  6. 命の尊厳その聖書的根拠(9)〜価値創造的愛の故
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第4回「生命軽視の原因(4)〜生命に触れる事なき子どもたち」

 永六輔さんが、ある時、ラジオ番組の中で日常語の由来について話しておられました。「おはよう」や「さようなら」など、私たちが日常、その意味を考えずに使っている言葉の意味や語源を調べ、教えてくださるという企画です。
 その中で、私が忘れることのできないのは「いただきます」の語源です。日本で食事の際に発するあの「いただきます」です。その本来の意味は「あなたの命を私の命としていただきます」という意味なのだそうです。例えば、食卓にサンマの塩焼きがあったとしたら、サンマさんに向かって「あなたの命をいただいて、私の命とさせていただきます」というのが「いただきます」本来の意味だというのです。
 昔の人々は、他の命が奪われることによって、自らの命が維持されていることを自覚していたのでしょう。捧げられた命を尊いものとして感謝し、食事をしたのが「いただきます」の始まりと思われます。産業化される以前の日本社会では、食事という最も日常的な場面ですら、命を実感することができたのでしょう。 ところが、今や食料品は半ば工業製品のようです。最近では、魚は切り身の状態で泳いでいると思っていた子どももいるとか、いないとか。切り身でトレイに乗せられパックされた魚を見ても、そこから生命が感じられないのは当然でしょう。

  命の事は命に触れて体得するものです。かつて子どもは自然の中、動物の誕生や死に触れ生命の尊厳を体得しました。子どもたちは動物の出産や産卵を目撃します。親が子を大切に育てる姿に触れます。その中で無意識の内に命の尊厳を学びとったことでしょう。逆に自然の中では、死に触れることもあります。動物の死体や死につつある姿を目撃します。
 決して好ましいことはありませんが、動物を殺したり、いじめたりすことを通じて、子どもたちは、命のはかなさを学びます。そしてはかなさと表裏一体のものとして、かけがえのない命の大切さを体得します。

 今や、都市化された環境の中で、子どもたちは命の尊厳を学ぶ機会を失っています。住宅事情からペットを飼うことも許されず、ますます、その機会は失われつつあります。いわゆる電子ペットは、その代用品でしょう。まさに時代が生み出した商品です。ペットを飼いたいが不可能である、あるいは面倒くさいと思う子どもたちのニーズに見事なまでに呼応した商品と言うべきでしょう。
 タマゴッチなど今も様々な電子ペットがあるようです。しかし、どんなに精巧な電子ペットも所詮「刺激→反応」という単純な要素の集合体に過ぎません。それは数学の関数のような数値化された命に過ぎません。現実のペットたちの命は、もっと複雑で不確定要素が高いのです。そして何よりも、生身の命なので、死ぬのです。電子ペットのようにリセットもできなければ、修理も不可能です。放置しておけば、死体は腐敗し異臭を放つのです。それが生々しい現実の命なのです。
 ペットであった犬や猫の死に涙し、葬儀を行い、戒名までつけるという話しは聞いたことがあります。しかし、電子ペットの死に泣きじゃくり、墓に葬り、弔辞を読む子どもは聞いたことがありません。やはり、偽物はどこまでも偽物なのです。現実の命に代わって子どもに生命の尊厳を体得させることはできません。

 近年の少年犯罪に見られるいじめや殺意にブレーキがない傾向に関しては、子どもたちが生命の実感を持たないからではないかという指摘がよくされます。確かに、かつては、いじめや殺意にブレーキがかかりました。それは理屈でなく実感であったはずです。
 動物をいじめて殺すことと人間をいじめによって死に至らしめることの間には超えることのできない垣根があったはずです。それは体得された、実感として揺るぎの無い物であったはずでした。もし、現在の子どもたちのなかに、そのようなものが育っていないとすれば、それは子ども自身と私たちの社会にとってあまりにも大きな欠落ではないでしょうか。
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