第5回「生命軽視の原因(5)〜子どもの生命観を形成する仮想空間」
かつて我が家のベランダからは、児童館とそれに隣接する公園が見えました。そこには、今も昔も変らない、無邪気に楽しそうに遊ぶ子どもたちの姿があります。しかし、一方、従来にはなかった新たな遊びの風景を見ることもできます。その内のひとつを紹介しましょう。
ある時、公園の滑り台の上に小学校高学年と思われる男の子たちが数人立っているのを見ました。ところが、一向に滑り台を滑る訳でもなく、じっと向かい合って立っているのです。よく見ると、事の真相が分かりました。実は向かい合っているのではなく、それぞれがうつむいているのです。向かい合っているのは友達同士でなく、その手元にあるものでした。そうです、少年たちは、滑り台の上で向かい合って立ったまま、それぞれが自分のゲームボーイを楽しんでいたのです。何とも奇異な印象を受けたのですが、良くも悪しくも、いかにも現代的な遊びの風景だと感じました。
大人たちは、現実の生命に触れながら生活します。人間関係に苦労しながら、矛盾と葛藤に満ちた現実の命に触れながら生きています。その中で命の脆さと弱さ、その尊厳と強さを体験し、人間観や生命観を形成します。いかに、ゲーム世代とは言え、30代以上の大人たちは、そのような現実に根ざした生命観をある程度確立しているはずです。大人たちが、テレビゲームを楽しむ場合、それは現実とは区別された仮想空間として楽しんでいるのです。どんなに熱中しても、大人は仮想空間を現実の世界に持ち込むことはしません。大人は一定の現実感覚得ているので、仮想はそれがどんなにリアルであってもあくまでも非現実なのです。
間違っても現実社会にあっても自分が中心であり、他者の命が自分の技術で思い通りにコントロールできるとは思わないはずです。既に現実に触れて学んだ大人にとって仮想空間は、どこまで行っても偽物なのです。
一方、子どもたちの仮想空間の楽しみ方は、大人とは全く異なります。本来、成長過程にある子どもたちは、10年以上を要して、生身の人間に触れながら、生命観を形成する必要があります。ところが、テレビゲームの普及に伴い子どもたちは生身の人間に触れるよりも、画面上の架空の生命に触れるのです。仮想空間も技術上の進歩に従って、いよいよ現実性を増しています。現実性を増せば増すほど、架空の人格は魅力的になり、いよいよ現実の人格にとって代わります。
子どもたちにとって、思い通りにならず、時に自分を傷つける現実の命と、技術次第で支配でき、コントロール可能で、決して自分を傷つけない架空の命と、どちらが心地よいでしょう。
冒頭の一見奇異な遊びの風景も、テレビゲームがもたらした一つの必然と言えるでしょう。しかし、ここで私たちは危機感を持たなくてはなりません。なぜなら、仮想空間が子どもの生命観すら形成しているからです。ゲームに没頭する子どもたちは、友達と向き合いながらも、現実の命から学ぼうとせず、仮想空間上の命ばかりと触れ合っているからです。大人とは異なり、現実世界に歩み出たばかりで、価値観の形成期にある子どもにとっては、仮想空間が現実世界に変って生命観を形成しているのです。
その中で、リセットしうる画面上の生命が現実のものへと延長されています。妹を失った同級生に対して、幼稚園の子どもが語った言葉。「○○ちゃん、妹が死んじゃったんだってね。でも、リセットボタン押したら生き返るから、もう泣かないでね。」これが、仮想空間に触れて育った世代の弔いの言葉なのです。
リセットし得る現実感も重みもない命、ゲーマーの技術次第で支配できる命、思い通りにならなければ抹殺して構わない命、それらは、すべて仮想空間上の命です。決して現実世界に延長されてはならないもののはずです。
私は時々娘と共に児童館に入ります。そこには隣りの公園で見掛けた奇異な風景は皆無です。そこでは、学童保育が行われていますが、ゲーム禁止なのです。多分、それは明確な教育方針なのでしょう。そこはまさに現実の命のぶつかり合いが見られます。仲良く連帯する命あり、利害対立から争い合う命ありと、現実の命の持つ矛盾や葛藤に満ちた姿が見事に展開されておりました。それを見守りながらも、適切タイミングで適切な内容の指導を与える先生方を拝見し、心安らぐ思いがしました。
いつの時代も子どもは大人世界の矛盾の犠牲者です。仮想空間は確かに有益な技術でしょう。しかし、仮想空間に登場する人物が子どもの教育者になっては、ならないでしょう。子どもの教育者は、それが大人であれ、子ども相互であれ、現実の命でなくてはなりません。そこからしか、現実的な生命観は生まれ得ないでしょう。
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