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いのちってどれほど大切なの? 聖書が語るいのちの大切さ
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聖書が語るいのちの大切さ
このコーナーの趣旨
  1. 生命軽視の原因(1)〜進化論的生命観
  2. 生命軽視の原因(2)〜死に触れる事なき生活環境
  3. 生命軽視の原因(3)〜最先端の生化学が生み出した遺伝子還元論
  4. 生命軽視の原因(4)〜生命に触れる事なき子どもたち
  5. 生命軽視の原因(5)〜子どもの生命観を形成する仮想空間
  6. 生命軽視の原因(6)〜命までも数値化する経済至上主義社会
  7. 生命軽視の原因(7)〜命を管理し序列化する教育現場
  8. いのちの尊厳、その聖書的根拠(1)〜神の似姿としての人間
  9. いのちの尊厳、その聖書的根拠(2)〜他の被造物との役割の違い
  10. いのちの尊厳、その聖書的根拠(3)〜神の交わりの相手として

  1. 命の尊厳その聖書的根拠(4)〜人にとっての交わりの対象
  2. 命の尊厳その聖書的根拠(5)〜殺人禁止の真意
  3. 命の尊厳その聖書的根拠(6)〜生産性を超えた生命の価値
  4. 命の尊厳その聖書的根拠(7)〜キリストの体の一部として
  5. 命の尊厳その聖書的根拠(8)〜数値化されない愛の故
  6. 命の尊厳その聖書的根拠(9)〜価値創造的愛の故
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第6回「生命軽視の原因(6)〜命までも数値化する経済至上主義社会」

 2001年2月、信徒の方々とまた、某宣教団体の責任者と共にカンボジアを訪問しました。目的は我が教会が派遣している宣教師を訪問しつつ、自らもカンボジアから学ぶためです。最初の2日間はアンコールワット等の遺跡を見学しました。
 某宣教団体責任者であるこの先生は、大変フレンドリーな方です。外国の旅行者にも気軽に話し掛けます。確かアメリカ人と先生とのやり取りで次のようなものがあったように記憶しています。英語での会話なので自信はありませんが、私なりにその会話を再現してみます。

   「そうか、あんたは日本から来たのか。ところで日本人は何を信じているのか?」
 「日本人の多くは仏教徒だが、名目上に過ぎない。実質は何の宗教も信じていない。」
 「そうか、では、日本人は無神論者なのか?」
 「いいや、無神論ではないんだよ。無神論というのは強い思想だ。日本人は神を信じないが、無神論者でもない、単なる物質主義者だ、さらに言えば金がすべてなのだよ。」
 「そうか、よくわかった、ありがとう。」

  神を信じない人生観を無神論と呼んではならないでしょう。それでは無神論者に失礼というものです。無神論とは本来、強く積極的な思想です。無神論者とは神が存在しないという前提の上に明確な世界観、人生観を築き上げ、そのポリシーに従って生きる人のことです。神なしに人生の目的を定め、人間存在の価値を上からでなく、下から築き上げるのですから、それは一つの強烈な思想であります。
 神はいないと言いながら、縁起を担ぎ、たたりを恐れる多くの日本人は、自らを無神論者と呼んではならないでしょう。結局、貧困な神概念しか持たず、ヨーロッパのようにキリスト教文明を通過した上での無神論を持たない日本人は、ただの物質主義者であり、極論すれば拝金主義だと判断するのが妥当のようです。

  そこで考えたいのが現代日本に代表される経済至上主義社会であります。本来、資本主義経済というものは、根底に聖書的価値観があると言われます。その経済活動には常にキリスト教的倫理が根底に流れているのです。
 ところが日本における資本主義経済は神なき資本主義となってしまったようです。聖書的な商業倫理を持たない資本主義は必然的に利益最優先主義に陥ります。神なき経済活動は単なる儲け主義となります。結局、経済活動の中に神がないので、人間の欲望や金銭自体が神となります。それは、神ならぬものを神の位置に置くのですから、まさに偶像崇拝です。かくして、日本経済の下、国民の多くは金を求め、金に仕え、金に献身します。物質的豊かさが幸福を与えるという盲信の中、家庭と健康を犠牲にしてまで、金の出所である会社に献身している様は、何か悪い宗教に取り付かれているようです。

 このような高度経済社会は、ついに私たちの人間観や生命観にまで変革をもたらしました。その変革の内容とは「すべては経済原則に基づいて価値が計られる」というものです。人間すら、その所有や生産性に基づき価値がはかられ、序列化されてしまいます。卑近な例で言えばいわゆる「三高」などはその典型でしょう。
 「高学歴」「高収入」「高身長」そのどれもが、偏差値、金額、センチメートルという数値で表現可能なものばかりです。結婚相手の条件は「三高」に限るなどと本当に考えている女性がいるとすれば、かなりおめでたい人ですね。結婚の本質においても、異性理解においても、可哀想なくらいはずしていますね。

  結婚の条件だけならまだいいでしょう。日本国民は一生の間、数値化され評価されいるのですから。子どもはテストの点数や通知票の数字、そして偏差値で計られます。大人になれば、営業成績や給与、職業や勤務先のランク付けで評価されます。そのように自分が、散々数値化され傷ついてきたにもかかわらず、次には自分の子どもを数値化して評価します。高度経済成長の中、どうも、そのような生命観が日本には浸透していしまったようです。
 当然、そのような生命観に立てば、人間が人格としてとらえられるのでなく、機能、役割、社会への貢献度でとらえられます。そして人間の生命が数値化され、序列化され、評価されます。そこでは、「より優れた命」と「劣った命」、「好ましい命」と「好ましくない命」が判別されます。

 この生命観は、実際にはどのような形で日本の社会に現われているでしょう。一般的には財政に負担をかけ、経済的に貢献度が少ないとされる高齢者、障害者は生きる価値、生まれてくる価値すら疑問視されていまいます。そこからは、老いや障害をマイナスとしてとらえる発想しか生まれてきません。「共に生きる」などという発想などは、最も経済効率の悪いものでしかありません。また、いじめなどの問題も「劣った命」「好ましくない命」を否定することで自らの命の価値を確認する行為として解釈することも可能です。
 聖書は私たちに教えます。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」人生二者択一なのです。どちらに仕えるかで、私たちの生命観は二分されますし、また、その生命観に立つ社会も大きく異なるのです。
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