第7回「生命軽視の原因(7)〜命を管理し序列化する教育現場」
私は元高校教師です。かつて、私の同僚の中には「教師よりも教師を辞めた人間の方が成功する」という自虐的なジンクスがありました。確かに世の中には、もと教師という肩書きをお持ちの有名人がおられます。歌手なら、スティングでしょう。日本ではBzの一人が教師であったとか聞いた覚えがあります。文学の世界では、古くは夏目漱石を筆頭に教師経験者が多いようです。私も皮肉なことに教師を辞して「転職」して「天職」に着いたというのが実感です。
私の周囲には元教師の友人が何人かいます。会話の中で出てくることのひとつは、かつての教育現場の異常さ、その教育内容の空しさです。私などは、教育の名を借りて、教育ならざるものに荷担してしまったという罪悪感すらあります。今思えば、クリスチャンとして「地の塩」「世の光」としての使命を十分果たし得なかったことを後悔するばかりです。
残念ながら、こういうことは、現場を離れて後、自らと教育現場を客観視して初めてわかるようです。現場にいる時は、結局自分が見えていなかったのですね。管理教育がよく批判されますが、管理されているのは生徒だけでなく教師も同様です。自由な発想や大胆な試みは許されず、高尚な教育的理想など捨てさせられ、上からの命令に従い、その意向を実行することに専念せざるを得ない組織的かつ構造的な悪が、多くの教育現場には蔓延しているのです。
しかし、かわいそうなのは、教師よりも子どもたちです。一部の例外を除けば、現在の日本の教育は「教育」ではなく、「加工」と呼ぶべきでしょう。教育とは本来人格を含めた人間の全存在を育てることのはずです。ところが、よく知育偏重教育と批判されるように、現在の教育は人格そのものでなく、付加価値(能力や技術)を高めるようなものとなっています。人格と違い能力や技術は目に見えて発表することも容易です。数値化して他の生徒や他校と比較することも可能です。ですから、学校側としては最も教育成果を父兄や地域にアピールしやすいわけです。また、日本の受験システムも、人格でなく、数値化できる学力を基準として合否が決められるのですから、人格育成より付加価値に重点が置かれるのは、残念ながら当然の帰結でありましょう。
そういった知育偏重教育にあっては、子どもは人格ではなく製品です。そして、より高い付加価値を持つ加工品が評価されるわけです。教育現場では人格の価値よりも、付加価値が評価されると言う本末転倒が起こっています。さらに、付加価値を高めるためには、その効率化のため画一的な基準で教育が為されます。より良質の加工品をより大量に生産する工場と同じ発想です。当然、子どもたちは良質の規格品という目標に向かって加工されます。
従って、規格から逸脱する命は学校社会の中ではその価値が認められません。規格に当てはまらない多様な命、個性的な命は、本来、教育上評価されるべきでしょう。しかし、現在の教育家では、それは規格外の不良品として評価されます。「規格を外れた命は価値のない命」それが、管理教育の生み出した生命観です。
良質の規格品になり得た「いい子」や「優等生たち」は、学力はあるが人格は育っていない場合が多々あります。確かに学校の優等生は一部の能力は高いのです。学んだことをより迅速に忠実に再現することには長けています。しかし、現実生活での判断力、複雑な人間関係を生き抜く能力などは、決して学力に比例するわけではありません。勉強はしてきたが学習はしてこなかったというタイプも少なくないように聞きます。学校の優等生が必ずしも社会での優等生になり得ないのは周知の事実でしょう。
一方、ただ、個性的であるだけ、多様なあり方の一部であるだけの理由で規格外の不良品として烙印を押された子どもはどうなるでしょう。誰からも評価されず、自己の存在価値を持ち得ないのです。勉強やスポーツ以外にも自己の価値や長所を発見することはあるはずですが、偏狭な大人たちはそれ以外の分野を評価し、認めようとしません。最も子どもを正しく評価すべき親も、我が子が規格外となることを極度に恐れています。一旦、規格外となった子どもを評価してやる最後の砦は親であるはずなのに、親が「最後のとどめ」をさしている場合もなきにしもあらずです。
「人間が管理のために規格を設け、それを基準に命を評価し、序列化し、価値のない命を社会的に抹殺する」。それは学校教育が無言の内に生徒に叩き込んできたことではないでしょうか。命の持つ絶対的な価値、それを根底から覆している責任の一端は学校教育にあると言えるでしょう。もちろん、学校だけを責めることはできません。学歴信仰に躍らされ、そのような学校教育を是認してきた国民全体に責任は問われるべきでしょう。
今でも思い出すたびやりきれない思いがする事件の一つに「女子高生コンクリート殺人事件」があります。加害者の少年の一部が出入りしていた暴力団の組員の一人が、こう語ったそうです。「俺たちにはあんな恐ろしいことはできない、最近の若い連中は本当に恐ろしい。」
加害者少年たちが暴力団に比べて、より凶悪であった訳ではありません。やはり、暴力団はプロですから、悪においては暴力団が上です。少年たちがより残虐であったのは、少年たちが未熟であったからに他なりません。成熟した悪は狡猾です。成熟した悪は、決して残虐性を表面に出しません。暴力団の世界を見ればそれは明らかです。彼らの悪は悪のルールの中で行われ、闇の中で終結します。
その残虐性が社会に知られることはめったにありません。しかし、未成熟な悪は愚かなまでに残虐性を呈します。悪のルールさえ逸脱して秩序なき暴走をします。それが暴力団の悪より恐ろしいのは当然です。従来の悪の世界にもなかった悪を生み出すからです。
近年に見られる少年犯罪の残虐性は、少年たちが以前に比べて凶悪になったことを意味するのではありません。むしろ、未成熟であること、本質的なものが欠落していることを意味します。幼児期から少年期に、人間として当然獲得すべきものをしないで来てしまったことが問題なのです。本来、家庭教育や学校教育を通じて獲得させることを失敗した大人側のエラーと言うべきでしょう。
現在の教育が、規格外の少年犯罪者であれ、規格品のエリートであれ、著しく人格の未成熟者を作り出しているのは疑いようのない事実でしょう。人格形成において必須である「命の絶対的尊厳」を教えないどころか、それに最も反する理念に基づいて学校教育が行われている現実を知って頂きたいと願います。そこから、管理教育、生命軽視、少年犯罪、この三つの密接な関連性が見えてくるはずです。
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