第8回「いのちの尊厳、その聖書的根拠(1)〜神の似姿としての人間」
ある時、豊臣秀吉が千利休に尋ねたそうです。 「下々の者どもは、わしのことを猿に似ておると申しておるそうじゃが、そのたはどう思う?わしは猿に似ておるかの?」
そこで問われた千利休、「似ておりませぬ」と申し上げてはあまりにも白々しい、しかし、「似ております」と言っては身も蓋もない。そこで千利休の名解答 「秀吉様が猿に似ておられるのではありません。猿どもめが秀吉様に似ているのでございます。」
まるで一休さんのとんち話のようです。
よく神様は人格的な存在だと言われます。しかし、聖書を読みますと、どうもこの表現は不正確なように思われます。神様が人間に似ているのではなく、人間が神様に似ていると言う方がより聖書的には正確なのでは?と思います。神様が人格的な存在なのではなく、むしろ、人間が神格的存在と表現する方がより聖書的なようです。
人格的な神様、人間に似た神様なら、古事記やギリシャ神話の神々の方が、適任でしょう。嘘はつく、争う、盗む、殺す、不倫する....と、私たち人間そっくりではありませんか。まさに、人間が自らの延長線上に作り上げた神々こそ、人格的な神と表現すべきでしょう。「神は御自分に似せて人を造られた。一方、人は自分に似せて神(偶像)を造った」という言葉があります。これは、聖書の神観を簡潔かつ的確に表現していると思います。
創世記1章26節には次のようにあります。
「そして神は『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、産みの魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」
聖書は私たち人間を「神の似姿」として描いています。創世記1章によれば、人間以外の被造物は「〜〜あれ」または「〜〜を生ぜよ」などの言葉によって自動的に発生しました。ところが、人間だけは自動的に発生したのではありません。
神様は人間を特別のデザインで創造なさったのです。それが「われわれのかたち」という言葉の意味です。「かたち」といっても神様に外見上の形はありません。外側の形があるのは神ならぬ神、偶像です。では、この「かたち」とは何でしょうか。英語ではこの「かたち」という言葉は、イメージと訳されています。外見上の形を意味するシェイプやフォームではないのです。つまり、人間が神のかたちに造られているということは、神様が知性や情緒や意志を持ち、そして霊的な存在であるように、私たちも知情意を備えた霊的な存在であるということを意味するのです。
ここに人間と他の被造物との決定的な差異が生まれます。基本設計が本質的に異なるのです。「ゴキブリは殺していいのに、なぜ人間は殺してはいけないのか?」という言葉が日本中を震撼させました。そのような本質的な問いに対しての明確な答えを与えるためには、人間と他の生物との絶対的な違いを示す事が不可欠です。
もちろん人間以外の生命に尊厳がないわけではありません。どれも神による被造物としての尊厳はあるでしょう。しかし、それは相対的なものに過ぎません。次回に示します人間の支配権との関係に左右されるものです。ですから、絶対的な尊厳は神の似姿である人間にのみあるのです。神の似姿だからこそ、神様のかたちに造られているからこそ、人間の生命は絶対的な尊厳を持つのです。
|