第9回「いのちの尊厳、その聖書的根拠(2)〜他の被造物との役割の違い」
ペットの処分場という施設があります。行き場のなくなったペットたちが文字通り最後に行き着く場所のようです。飼い主は自ら手を下すわけではないのですが、結果的にペットを死に追いやるという悲しい現実があります。牧畜業の多くも育てた家畜を最終的には殺す事で生計を建てています。人間は何らかの形で動物を死に至らしめています。
人間の側がペットや家畜などの動物を殺す事に対しての感じ方、考え方や判断は人それぞれでしょう。しかし、ペットや家畜の側が飼い主を殺したとなると、もうこれは大変なことです。飼っていた猛犬に噛まれた飼い主が死亡、馬に蹴られて即死の馬主、象に踏み潰された象使い、どれもありえない話しではないでしょう。その場合、それを見聞きした人々の内に起こる思いは大差がないでしょう。
どうも、人間が動物を殺す事と、動物が人間を殺す事は本質的に違うようです。どちらも痛ましい事柄でしょうが、後者の方が遥かに痛ましく感じるものです。それは、私たちの考え方や感じ方が「人間と他の動物との決定的な違い」を前提としているだと考えられます。
創世記1章28節には次のように書かれています。
「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。
海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」
この聖書箇所は一般に文化大命令と呼ばれます。ここで神様は人間に対して他の被造物への支配を命じています。人間が他の被造物を支配することは、神様の御心なのです。それどころか人類に対しての最も基本的な命令と言ってもよいでしょう。
支配権と言ってもそれは、神様からの委託に過ぎません。神の似姿に創造された人間があくまで神様の代理として他の命を支配するのです。ですから、この支配は「恵みの管理」あるいは「神の栄光を現す限りにおいての支配」と言いかえる事も可能でしょう。たとえば、経済的な利益追求による環境破壊などは最も御心に反した行為と判断されます。それは、神様から委託された権威の御用乱用であり、神の栄光という目的を自己の栄光に置き換えたものと評価すべきでしょう。
ここにおいて、人間と他の被造物との関係は「支配者」と「被支配者」という関係が成り立ちます。このような「神」「人間」「被造物」というヒエラルキーは何千年にも渡り西洋文明を支配してきました。もっとも、最近ではこういう考え方は人気がないのかも知れません。一部のエコロジー団体や動物保護団体からはご批判をいただきそうです。
もちろん、人間以外の生命にも尊厳があります。地球環境は他の生命のためでもあります。しかし、聖書的な世界観から見るなら、その生命の尊厳は相対的、あるいは条件付きと言うべきでしょう。やはり、聖書によれば、他の被造物は「神の栄光のため」であると同時に「人間に支配されるもの」と位置づけられるのではないでしょうか。他の動物を人間が食べる事、利用することは、原則的に神様の御心にかなった事と言えそうです。
しかし、人間の命には絶対的な尊厳が与えられています。人間の命に関しては、神以外の誰にもそれに対する支配権が与えられていないのです。動物の命の支配権を持つのは飼い主や所有者などの人間です。しかし、人間の命の支配権を持つのは神様お一人だけです。人間は決して他の人間の命に対して(その生命の尊厳を損なうようなレベルでの)支配権を持ってはならないのです。
奴隷制度(主人がその生命に対して絶対的な支配権を持つ)はその意味においても、究極的には廃止されるのが聖書的だと私は個人的には考えています。また、世界中の人権問題(権力が特定の人物に支配権を持つ)もそのような聖書的視点からとらえるべきだと思います。胎児が人間であるという前提に立つなら、人口妊娠中絶も、胎児の生命に対する神の支配権の侵害と解釈することもできます。
「人は所有する動物の命には一定の支配権を持つが、他の人間の命に対しては支配権を持たない」だから、ゴキブリは殺してよくても、人間はいけないのです。殺すという行為は他者の命の尊厳を否定する事だからです。殺人とは他者の命に対して間違った支配権、本来持ち得ないはずの支配権を行使する事だからです。
人間の命の支配者は神様です。他者の生命を奪う事はその支配権に対する越権行為です。人間の領分を超えた行為であり、故に神様に罰せられるべきものなのです。
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