第10回「いのちの尊厳、その聖書的根拠(3)〜神の交わりの相手として」
どうも、「本質的なことは問わない」というのが日本社会における暗黙の了解のようです。「何のために勉強するのか」を問わないで生徒は勉強し、労働者たちは「何のために働くのか」を考えないように仕事に追われ、多くの男女が「何のために結婚するのか」が明確でないまま、結婚します。結局「何のために生きるのか」わからないままで生き続け、「死んだらどうなるか」も知らず、行き先不明のままこの世を去るというのが平均的日本人の一生ではないでしょうか。
その中にあって「なぜ、人を殺してはいけないのですか?」という問いは、日本中を震撼させました。問い掛けた側の異常性だけが、恐怖を抱かせたのでしょうか?むしろ、問われた側が震撼した理由は、自らの内に答えを持ち得ないからではないでしょうか。極めて本質的な問いが明確な解答を持たぬ時、それは問われた側を震え上がらせるだけの力を持つようです。
「なぜ、人を殺してはいけないのですか?」それは、「御互いそれは問い掛けない事にしよう。それを問い掛けたらやっていけないから」という日本社会の暗黙の了解を打ち破るアナーキーな問いかけであったに違いありません。
創世記2章前半には人を殺してはならない明確な根拠が記されています。
「その後、神である主は、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2章7節)
ここでも、やはり人間と他の被造物との決定的な違いが描かれています。人間は「神の息」、言いかえるなら「神の霊」が吹き込まれているのです。他の動物はこの神の霊を持っていません。人間だけが神様の霊を所有しているのです。
そして、この神の霊を持つ者だけが神様との交わりを持つ事ができます。すべての被造物の中で礼拝行為ができるのは人間だけです。以前、ジュースの自動販売機の横面に随分宗教的な落書きを見た事があります。「人と生まれし喜びは合わす手のあるありがたさ。」多分、どこかの新興宗教のキャッチフレーズか何かでしょうが、見事な句だと感心しました。人間のだけが唯一宗教性を持つ生命体であることを端的に表現しているからです。
わが家には電話もファックスも電子メールもあり、私は実に様々な形でのコミュニケーションが可能です。ところがいつも問題になるのは「相手がそのような手段を持っているか」どうかです。図面や楽譜を送りたい時に「ファックスをお持ちですか」と尋ね、コンピュータで読み取るデータを送る時は「電子メールのアドレスはお持ちですか」と御聞きしなければなりません。電話もファックスも電子メールも両者が所有していて始めて交わりが可能となります。
礼拝という宗教的な交わりも同様です。神と人との両者に共通のコミュニケーションの手段がなくてはなりません。その共通のコミュニケーションの手段というのが「神の霊」なのです。霊的な存在の語り掛けに対して応答できるのは霊的な存在である人間だけなのです。
ですから、神様の目からご覧になるから、人間と他の生命とは絶対的に異なるわけです。その違いは「呼べば答える相手」と「呼べども答え得ぬ相手」と表現しても良いでしょう。「応答性の有無」と一言で言ってしまう事も可能です。「生身の人間」と「人形」の違いだと表現すれば、さらに実感できるでしょうか。
神様にとっては人間と他の被造物とは、わが子とぬいぐるみの人形ほどの絶対的な違いがあるはずです。人間だけが特別な意味において神様の交わりの相手であり、故に愛の対象なのです。ですから、人間の命は神様にとって絶大な価値あるものなのです。そのような神様の交わりの相手であり、熱愛の対象である人間の命を神様の許可なしに奪う事は最も神様が悲しまれる事なのです。
|