第11回 「命の尊厳その聖書的根拠(4)〜人にとっての交わりの対象」
「あなたにとっての奥様の存在を喩えるとすると?」と問われると、年配の男性たちはよく「空気のような存在」とお答えになります。それは「存在感がない」、「何の刺激もない」、「風景の一部」というようなことでしょうか。そうは言いつつも「自分にとってなくてはならないもの」という思いも見え隠れします。
創世記2章18節によれば神様は「人が一人でいるのはよくない」と判断されました。人間が単に神様との交わりだけで生きることは、人間にとってふさわしくないと考えられたのです。そして神様は「彼にふさわしい助け手を造ろう」と決断されました。そうです。
私たち人間は一個人として神様に仕えるだけでなく、他の命との交わりの中で、民として神様に仕えることが神様の御心なのです。他の命と共に生きることが人間の本分ということでしょう。
そこで、神様は様々な動物を連れてきますが、どれも役不足なのです。神様は動物には「ふさわしい助け手」が勤まらないことを確認し、最後にもう一人の人間を創造されます。つまり、アダムがと共に生き、共に神様に仕える交わりの相手として、他の人格エバを造られたのです。
確かに共に人生を歩むパートナーに動物を選ぶ人はあまり見たことがありません。「私は猫のタマと人生を共に歩みます」という愛猫家もそうはいませんでしょう。「僕の人生の伴侶は犬のポチです」という愛犬家も少し寂しい気がします。「わしは牛のハナコと共に神様に仕える」という牧畜業のクリスチャンもいないように思います。人間以外の動物も愛情の対象とはなるでしょうが、共に人生を歩む伴侶、共に神様に仕えるパートナー、ふさわしい助け手とはなり得ません。
人間には動物では決して果たしえない役割が与えられています。それは、互いはかけがえのない交わりの対象、共に生きるべきパートナーということです。その最小の単位として、あるいは最も深い交わりとして神様は夫婦という関係をお与えになりました。そして、夫婦以外の関係は、それに準じて大切なものとなります。
人間にとって他者(他の人格)とは本来、競争相手でも敵でもなく、共生の対象、愛し合い仕え合うべき存在であったのです。ただ、それが創世記3章以降の罪の侵入によって破壊されただけです。
先に神様にとっての交わりの対象として人間が他の被造物とは絶対的な差異のあることを見ました。そのことは、人間にとっての交わりの対象という視点からも同様です。
やはり、人間にとっての交わりの対象を考えた場合、人間は、動物とは絶対的な差異を持っているのです。動物では決して勤まらない役割や使命を私たち人間は他の人間に対して与えられているのです。
ですから、夫にとって妻は第一に人格なのです。当たり前のことでしょうが、妻は動物ではありません。決して家畜やペットのように考えたり、扱ってはならないのです。残念なことに日本の社会において、かつて女性は、家畜のように扱われていました。家制度の中では、結婚した女性に期待されたことは子孫を残すことでした。不妊は正当な離婚理由でした。これでは、繁殖のための家畜と大差ありません。また、女性は、農業などでは労働力として扱われました。病弱で働けない嫁は失格者であったようです。かつての日本では、このように女性が人格的な交わりの対象としてより、子孫繁栄の手段と労働力として扱われていたのです。
現代でもそのような傾向がないわけではありません。「お袋に孫の顔を見せたいから」と子孫繁栄を第一の理由として結婚もあるでしょう。妻を第一に労働として迎えるような態度が農家や自営業にはあるかもしれません。男性が自分の高齢者となった自分の親を介護させるための結婚というパターンも時々耳にします。
そう考えますと、既婚男性者の場合、妻を第一に人格的な愛の交わりの対象と考えて大切にすることが、命の尊厳に生きることになるのかもしれません。もちろん、妻だけではありません。いかに競争社会とはいえ、他の人格をライバル視、敵視することは命の尊厳に生きることを拒否する姿勢と言うべきでしょう。他の人格を第一に人格的な愛の対象として考え、仕えてゆく隣人愛の姿勢こそ、命の尊厳に生きる実践であるはずです。
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