第12回 「命の尊厳その聖書的根拠(5)〜殺人禁止の真意」
十戒の第六戒にあたる御言葉「殺してはならない」(出エジプト20:13)は、人間の生命の尊厳を最も単純にかつ力強く示すものです。ところが、イエス様が生きられた時代にはこの御言葉は真意を失っていました。そこでイエス様は山上の説教の中で、律法の真意の回復を試みられました。
イエス様は「昔の人々に『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」(マタイ6:21)と切り出されたのです。イエス様は「聖書に書いてあります」「律法にあります」とはおっしゃいませんでした。「昔の人々が言った」と表現されました。そうです。これは聖書の言葉でも律法でもなく、人の言葉、言い伝えに過ぎないのです。
「人を殺してはならない」(第六戒)も「人を殺すものはさばきを受けなくてはならない」(民数記)も、本来は聖書の言葉、律法です。しかし、本来別々であったこの律法を、当時の人はこれを一つにして解釈していたようです。後者を前者に付け加えることによって前者の持つ本来の意味はどのように歪められたでしょう。
「人を殺してはならない」は普遍的な生命の尊厳を示します。それに「人を殺すものはさばきを受けなくてはならない」という司法上の律法を付け加えるなら、第六戒は単なる刑事上の殺人行為の禁止という意味になってしまいます。そうです、生命の尊厳という崇高な神様からの啓示は殺人行為の禁止という意味に矮小化されてしまっていたのです。
そこでイエス様は22節以下で、具体性をもって第六戒が本来意図していた生命の尊厳を回復されます。イエス様は、殺人行為ではない、兄弟に向って腹を立てること、「能なし」と言うこと、「ばか者」と言うことの三つを第六戒への違反行為の具体例として示されました。
「腹を立てる」とは瞬間的にかっとするような感情レベルの心理状態ではありません。怒りを蓄積し、恨みや憎しみを抱き続けるような心理状態です。つまり相手の存在価値を否定する第一歩です。
次の「能なし」は口語訳では「愚か者」と訳されています。原語は「ラカ」です。その意味は言葉の響き通りのニュアンスです。日本語では汚い言葉で申し訳ありませんが、「ばか」「アホ」の類でしょう。これは、能力や生産性によって他者の価値を測り、基準に満たない者の存在価値を認めない言葉です。あるいは、自分にとっての貢献度で他者の価値を計り、貢献度の低い者を切り捨てる言葉です。
最後の「ばか者」と訳されている言葉は道徳的に相手を侮辱する言葉です。日本語では「外道」「畜生」「人間のクズ」というようなニュアンスでしょうか。相手の人格を真っ向から否定する言葉です。
ここに見られるのは相手の不在を望む心です。自分にとって不都合な命、不利な命、不快な命の存在価値を認めようとしない思いです。「あの人がいなければよい」というその思いはもはや第六戒が禁ずる殺人行為であるというのです。思いの世界における殺人、内的な殺人行為なのです。
そして、そのような思いが言葉で表現されるとき、それは人を殺す言葉になります。「能なし」「ばか者」など、相手の人格や存在意義を否定する言葉は、人を人格的に殺すことが可能です。あるいは社会的に葬り去ることもできるでしょう。
確かに人を殺す思いや言葉は刑事上の罪にはなりません。しかし、神様の前には罪なのです。人を殺すような言葉、その心にある憎しみの問題、それが「殺すなかれ」という律法の心、真意なのです。
主の器、ポール・トゥルニエ師は言います。「山上の説教は、我々が安易に作り出す行為と思いの間の垣根を取り壊すものである。」まさに神様が「殺すなかれ」とおっしゃったその真意は、生命の尊厳が私たちの思いの世界や言葉の世界にまで徹底されることだったのです。
私たちの周囲には不都合な命、不利な命、不快な命が存在するかもしれません。激しい競争社会の中、「あいつさえいなければ」という思いや、ストレスの多い人間関係の中「あの人がいなくなれば」という願いを持つこともあるでしょう。そのような時にこそ、私たちは聖書の示す生命の尊厳に生きるか否かが問われるのでしょう。
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