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いのちってどれほど大切なの? 聖書が語るいのちの大切さ
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聖書が語るいのちの大切さ
このコーナーの趣旨
  1. 生命軽視の原因(1)〜進化論的生命観
  2. 生命軽視の原因(2)〜死に触れる事なき生活環境
  3. 生命軽視の原因(3)〜最先端の生化学が生み出した遺伝子還元論
  4. 生命軽視の原因(4)〜生命に触れる事なき子どもたち
  5. 生命軽視の原因(5)〜子どもの生命観を形成する仮想空間
  6. 生命軽視の原因(6)〜命までも数値化する経済至上主義社会
  7. 生命軽視の原因(7)〜命を管理し序列化する教育現場
  8. いのちの尊厳、その聖書的根拠(1)〜神の似姿としての人間
  9. いのちの尊厳、その聖書的根拠(2)〜他の被造物との役割の違い
  10. いのちの尊厳、その聖書的根拠(3)〜神の交わりの相手として

  1. 命の尊厳その聖書的根拠(4)〜人にとっての交わりの対象
  2. 命の尊厳その聖書的根拠(5)〜殺人禁止の真意
  3. 命の尊厳その聖書的根拠(6)〜生産性を超えた生命の価値
  4. 命の尊厳その聖書的根拠(7)〜キリストの体の一部として
  5. 命の尊厳その聖書的根拠(8)〜数値化されない愛の故
  6. 命の尊厳その聖書的根拠(9)〜価値創造的愛の故
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第13回 「命の尊厳その聖書的根拠(6)〜生産性を超えた生命の価値」

「あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」(出エジプト20:12)

 この御言葉は言うまでもなく十戒の中の第五戒です。この御言葉はよく未成年者の子どもが親を尊敬し従うための戒めとして用いられるように思います。いわゆる親孝行の聖書的根拠のように理解されがちです。この御言葉をもって、未成年者たちに両親を敬うように教える事は決して間違いではありません。しかし、それはあくまでこの第五戒の持つ二義的な意味なのです。
 実は、第五戒については、「成人である子供」が「高齢となった親」を敬うべき事を教えているというのが聖書学者たちのほぼ一致した見解のようです。十戒は本来、日本国憲法同様に大人を対象として語られたものですから当然でしょう。ですから第五戒は、第一に神様の御心としての高齢者扶養義務を命じているのです。さらに分かりやすい表現をするなら、「聖書における姥捨て山禁止令」と呼ぶこともできるでしょう。
 十戒を直接与えられた出エジプトの民は当時、約束の地カナンに向って移動中でした。まず、第五戒はそのような現場に即して解釈されるべきです。

 荒野の厳しい旅において、敬いたくなくなる親とはどのような親でしょう。 病気の親、歩く事がでない親、老いによって衰えた親など、移動するに当って不都合な高齢者たちがいたはずです。当然、そのような親が荒野に置き去りにされたり、旅の途中で見捨てられるという事態が予想されます。
 それでは、一方親を見捨てる子どもはどのような年齢でしょう。それは成年に達し、自らも親となっているような年齢の子どもであったはずです。親を見捨てるのですから、その中には家庭において決定権を持つ家長が含まれていたでしょう。
 このことは出エジプトの民だけでなく、イスラエル民族全体、約束の地への移動中だけでなく、約束の地への定住後も続きます。 以下の二つの聖書箇所は第五戒の実践的な命令であると思われます。

「父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である」 (箴言19:26)
「自分の父や母をのろう者、そのともしびは、やみが近づくと消える」 (箴言20:20)

 私たち現代の日本社会に生きる者は、このような御言葉を自分たちの見聞きする社会現象に即して理解してしまいやすいものです。この二つの御言葉から私たちの心には親に暴力を振るい、暴言を吐く10代の若者の姿が思い浮かぶかもしれません。
 しかし、古代社会においてはそうではなかったでしょう。父母に乱暴を行い、追い出す理由、親を呪う理由は何だと推測されるでしょうか。それは高齢者となった親の非生産性です。その存在がもたらす家庭の経済と経営への負担です。
そして、その背後にあるのは日々の食事さえままならぬような厳しい貧困なのです。限られた食物で飢えをしのぐような貧しさの中、家庭内での高齢者の存在は大きな問題となります。その中での家長夫婦らが行う可能性があったのが「乱暴する」「追い出す」「呪う」という行為なのでしょう。そして、それらが具体的にどのようなものであったかは予想がつきます。基本的に貧しい日本の農村における「姥捨て山」と同じ状況であったのです。
 高齢者福祉施設などなかった当時の社会の中で、働くことのできない高齢者が家庭から追い出された場合どうなるかは明らかです。高齢者の家庭からの追放は、そのまま死を意味していました。当時の社会的な状況を考えると、この高齢者扶養義務の切実さが分かります。このように考えますと、第五戒は子どもの世代にとっては「高齢者扶養義務」を命ずるものであり、一方、高齢者にとっては「高齢者の生命の保護」であることが分かります。

 時代と民族と文化を超えて、人類共通の現象があります。それは生命の価値が生産性や経済効率で測られ、価値が低いと判断された命は共同体から排除さるという社会現象です。物質主義、効率主義的な社会にあっては、働く事ができない高齢者の命は非生産的であり、経済効率においてはマイナスであると評価されてしまうでしょう。故にその命は「全体にとっての不利益となる命」「不在が望ましい命」というレッテルを貼られます。特に貧しさの中でその傾向は露骨となり、排除に向う力は強まるのでしょう。
 神様は以上のように、高齢者扶養義務を通じて物質主義や功利主義、効率主義などを超越した絶対的な生命の価値を私たちに示しておられます。日本は今や、人類がかつて経験したこともないような超高齢化社会を迎えようとしています。生命倫理の問題は、将来私たちがどのような社会を作っていくかを方向づけるものです。十戒が単なる道徳上の律法ではなく、現実的な社会形成における基本理念であったことを忘れてはならないでしょう。

 第五戒を実行する者には大きな祝福が約束されています。「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」と神様はイスラエル社会において第五戒実行者を祝福されるのです。そのことは21世紀の日本社会も同様のはずです。もし、日本社会が高齢者の生命を生産性や経済効率で価値づけることを止め、その生命の尊厳を認めるような社会形成をするなら、日本は祝福された社会となる事でしょう。日本社会にあっては「生命観における脱経済化」こそが「生命の尊厳に生きる社会」を作り上げる分岐点であるように思います。
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