第14回 「命の尊厳その聖書的根拠(7)〜キリストの体の一部として」
ある書物で読んだアリを用いた興味深い実験のお話です。アリの世界を観察するとよく働いているアリは全体の2割で、次の6割はほどほどに働き、最後の2割はほとんど働かずに歩き回っているだけだそうです。
そこでよく働くアリだけを捕まえて、集団を作ります。すると、やはり2割の働かないアリが出てくるのです。その逆に、働かない方の2割をピックアップして集団としても、やはり2:6:2の割合に落ち着くのだそうです。
そして、興味深い事にこの原則は企業社会にもある程度にも当てはまるのだそうです。業績の悪い、貢献度の低いと思われる2割の社員を解雇したら、その会社は精鋭軍団になるかのように思ったら、それは大間違いのようです。アリの社会と同様に、やはり2割は貢献度の低い社員が生まれると言います。
どうも働きの悪いアリや貢献度の低いと思われる社員も、組織全体の中にあっては必要なのかもしれません。それは「必要な悪」というより「必要な善」と考えた方が正しいのではないでしょうか。もしかしたら、神様は生産性や貢献度が低いと思われる命の必要性や大切さを自然の摂理を通して私たちに示しておられるのかもしれません。
自然を通してのは啓示は確かではありませんが、御言葉を通しての啓示は明らかです。聖書にはそのような生産性や貢献度が低いと思われる命の必要性や大切さを私たちに教えます。
「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」(气Rリ12:22)
「また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。」(气Rリ12:23)
ここではクリスチャンが器官に喩えられていますから、実際には教会内での弱いと見られる人、尊くないとみなされる人のことを意味しています。事実弱いのではなく「弱いと見られる」のです。また、神様の目から尊くないのではなく、世間一般の目から見て「尊くないとみなされる」のです。多分、「弱い」とは能力問題のことを、「尊くない」とは社会的な身分を意図しているのでしょう。
教会という共同体はキリストの体です。この世界のどの組織よりも神様のご意志が実現されるべき組織です。ですから、教会においては、誰もが能力や社会的評価と関係なくキリストの体の器官として、かけがえのない存在としてその価値を認められるべきでしょう。言うまでもなく、生産性や貢献度などで信徒も教職者も価値付けされてはならないのです。
私たちは生命の尊厳を失いつつある教会の外側の世界を批判する前に、まず、教会の内側の世界について謙虚に評価すべきではないでしょうか。教会の内部にあっても経済力のある人物、賜物豊かな人物、奉仕に熱心な事物、高い社会的地位を持つ人物などが優遇されているという現状はないでしょうか?心身ともに弱さを持っておられる方が教会の中で十分受け入れられているでしょうか?社会的な立場としては評価されにくい方も教会役員の一人として活躍しておられるでしょうか?
教会が成長第一主義に陥るなら、その教会経営も効率主義化し、生産性や貢献度などで信徒が価値付けされるのは、ある意味で当然の結果なのかもしれません。実は教会の中にも経済至上主義の波や生命の尊厳を軽視する傾向は流れ込んでいるのではないでしょうか。さらに、正確に言いますなら、教会を形成する私たち一人一人の心の中に、そのような影響が及んでいるのはないでしょうか。
「まず、教会の内側の世界について謙虚に評価すべし」と言ってもそれは、決して教会批判にはならないはずです。なぜなら、ここで問われている事は、キリストの体の一器官である私たちが他の器官をどう評価するかにかかっているからです。私たち個人が「弱いと見られる」器官をなくてはならぬものと評価しているか、「尊くないとみなされる」器官をことさらに尊んでいるかが問われるのです。御互いは神様の前に、御言葉を通じて問われるのです。「あなたは、教会内部で弱い他の生命に対して、あるいは尊くないと見える他の生命に対して、そのかけがえのない尊厳を信じて接していますか?」と。
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