第15回「命の尊厳その聖書的根拠(8)〜数値化されない愛の故」
ある高校に二人の女子高生がいました。二人は大の親友でともに成績優秀で品行方正な優等生でした。仮にその二人の名前をA子とB子としましょう。
常にトップクラスの成績を収め、教師からも信頼の厚い二人に異変が起こりました。A子が一人の男子に熱烈に恋をしたのです。しかし、その恋は片思いでした。授業中も家に帰って机の前に座っても、頭の中は彼のことばかりで、勉強は全く手につかなくなってしまいました。やがて、A子の成績は見る見るうちに落ちて行きます。親も教師も心配します。
その中でたった一人、A子の成績不振の理由を知っていたB子は何と言ったでしょう?「このままでは希望の大学に入れないわよ。」と心配したでしょうか?それとも「A子、だめじゃないの、そんな恋はあきらめて勉強に励みなさい」と叱ったでしょうか?
いいえ、B子はA子にこう訴えたそうです。「私はあなたがうらやましい、私も勉強が手につかずに成績が下がるくらい一人の人を本気で愛してみたい」と。
これは実話なのですが、私はこの話を聞いて大変感動を覚えました。なぜなら、私はここに愛の至高性や愛の本質的性質を見るからです。真実な愛は計算ができません。損得勘定を越えてしまいます。愛はその究極においては超理性的で非合理的です。成績が下がっても愛し続けるA子にも、そのような恋愛に至高の価値を認めあこがれるB子の姿にも私はそれらを見るのです。
聖書にもそのような愛の本質が描かれています。イエス様はおっしゃいました。
「あなたがたのうちに羊百匹を持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカ15:4)
イエス様はここで愛の本質を問い掛けておられるようです。一匹のために九十九匹を野原に残すのが愛の本質ではないかと聞き手の同意を求めておられます。羊飼いが迷い出た一匹を捜し求めるなら、野原に残された九十九匹は、大変な危険にさらされます。
羊飼いのいない羊は自分を守る事すらできない弱い存在です。行く道すら分からない愚かな動物です。ですから、残された九十九匹は、獣に襲われるか、穴に落ちるか、行方不明になるかという大きな危険にさらされることになります。
これはたとえ話しですが、もし、これが実話であり私がこの百匹の羊のオーナーであったらどうでしょう。私はこの羊飼いを即時解雇にするでしょう。なぜなら、この羊飼いは九十九匹という圧倒的多数派に対する責任を放棄したからです。オーナーの財産の99パーセントを失わせる危険を冒したからです。迷い出た一匹は諦めて、九十九匹を牧するのが、財産管理の観点からは正解なのです。
数学の世界では1<99です。ところが愛の世界においては1>99となってしまう事もあるのです。これに続く銀貨のたとえや放蕩息子のたとえでも同様です。そこにはあたかも「一枚が全部」であり「一人がすべて」であるかのような神様の愛が示されています。愛は数値化できません。故に愛の対象となる命の価値を比較することもできません。また、多数の命の価値を分割して考える事もできません。
このような神様の愛はイエス様によって究極の形で表現され、実現されました。イエス様は「私は、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)と宣言されました。そして、その言葉の通りを実行されました。私たちに羊にまことの命を得させるために、御自身を捧げられたのです。
良い羊飼いはその真実な愛の故に人間である自分の命と家畜に過ぎない羊の命の価値をも計算できなくなるのです。イエス様はその真実な愛の故に神である御自身の命と罪人に過ぎない人間の命との価値を計算比較する事ができなくなったのです。九十九匹の命が危険にさらされたという事実だけでも、一匹の命の重みは測り得ないものです。ましてや、羊飼い自身が命を捨てたとなれば、一匹の羊の命、その価値はいかほどでしょうか。
「一人の命は地球よりも重い」という言葉は決して偽善的でも、奇麗事でもありません。それは聖書的とさえ言えるでしょう。なぜなら、一人の命は神の命よりも重いからです。計算し得ない程の真実な神様の愛の対象だからです。払われた代価とその愛の故に、私たち人間の命の価値は絶大なものなのです。
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