第16回「命の尊厳その聖書的根拠(9)〜価値創造的愛の故」
命に対する価値付けと尊厳の問題はこれまで書いてきましたように密接な関係があります。聖書によれば、私たち人間の生命に対する価値付けの根拠は神御自身にあります。聖書中、神様が私たちの価値を宣言しておられる箇所は、幾つもあるのでしょうが、最もストレートな表現はイザヤ書43章4節の御言葉でしょう。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と神様は御自身の民にその価値と御愛とを宣言しておられます。さらにここには「わたしの目」という絶対的な価値基準と「わたし」という絶対的な愛の主体も明記されているわけです。つまり、「他の誰かが、価値がないと言ってもこの私はあなたに価値を見出す。世界中の人々があなたを軽蔑し、憎み、見捨てても、私だけはあなたを愛している」という神様の絶対性も描かれているのです。
では、「高価で尊い、愛している」と神様から熱愛を告白されているこの民はどのような民であったでしょうか。この43章は「だが、今、ヤコブよ」という言葉で始まります。この冒頭の「だが」は何に対しての「だが」でしょうか?それは民の現状、有り様に対しての「だが」でした。当時の民は、不従順、不信仰に陥り、偶像礼拝を続けながらも、それに対する悔い改めを拒み続けていました。本来なら神様のからの選びの民としての身分を剥奪されても当然の状態であったのです。43章はそのような民の状態に対しての「だが」で始まり、終始「だが」の文脈で神様が語り掛けておられます。
「だが、あなたは私が選んだ民なのだ。私はあなたを決して見捨てない。私の選びは変ることがはい。だから、もう一度、選びの民としての自覚をもって、私に立ち返りなさい」と神様は呼びかけておられるのです。
今回考えてみたい事、それは、神の愛の性質です。どうして、そのように愛するに値しないと思えるような民さえ、神様は心変わりすることなく、真実に愛されるのでしょう。それは神様の愛が言わば、「価値創造的愛」だからです。神様の愛は相手の価値を根拠に愛する「価値発見的愛」はないからです。神様の愛と人間の愛を比較する時、よくこの「価値創造的愛」と「価値発見的愛」という言葉が対比して用いられます。
私たち人間の愛は大方価値発見的愛です。相手の長所や魅力などの価値を発見して、その価値を根拠に愛します。ハンサムだから、美人だから、学歴があるから、金持ちだからと外側の価値を根拠に異性を愛する場合があります。また、優しいから、一緒にいると安心するから、自分を大切にしてくれるから、理解してくれるからというような心情的価値、自分にとっての精神的価値で誰かを愛する場合もあるでしょう。また、価値観や趣味が同じだから、感性が合うから、使命を共にできるからというような共有や一致という価値を根拠に相手を愛する事もあるでしょう。よく考えてみると私たち人間の愛は、多くの場合、相手に何らかの価値を発見し、その価値を根拠に「価値の所有者」である相手を愛するもののようです。
ですから、逆に言えば、価値がなくなれば、愛も消え去ってしまいます。相手が「価値の所有者」でなくなれば、私たちの愛もなくなってしまいます。立場を変えて言えば、自分が愛される価値を失えば、愛されなくなるという恐れが生じます。
昔から「金の切れ目が縁の切れ目」と言います。リストラにあって経済的価値がなくなれば、妻に捨てられる夫がいます。齢を重ね、美しさにかげりが見えてくると、夫や恋人に捨てられる女性がいます。精神疾患者となった伴侶に離婚届を突きつけるベテラン夫婦がいます。愛を注いだ子どもがやがて犯罪者になれば、親子の縁を切る場合もあります。相手が自分に利益を与えないくなれば、様々なパートナーシップは崩壊に向うものです。要は愛される側の価値が消滅すれば、愛する側の愛も消滅するのです。
しかし、神様はこの堕落腐敗しきった民を愛し続けていました。なぜなら神様の愛は「価値発見的愛」ではないからです。民の内に、愛すべき価値が消滅した時にさえ、神様の民に対する愛は消滅しないのです。神様の愛は、愛する相手の状態に全く依存をしないのです。愛の対象の価値の有無や大小は神様の愛する意志には微塵の影響も及ぼし得ないのです。神様の愛は価値発見的であるとともに、絶対的、主体的な愛であると言えるでしょう。
神様の愛のは民の現状に左右されないどころか、神様は愛を伝えて、この民の内に価値を与えようとしておられるのです。選ばれた民としての自らの価値を発見し、この愛に応えて立ち返るように呼びかけて下さっているです。神様の愛を人間の愛の延長線上に考え、自分たちは神様にとって無価値であり、愛を受けることはもはやないと考えていた民に対して、神様は民自らの価値と自らに注がれている神の愛を自覚させようと願っておられるのです。
このように生命の価値と尊厳の関係は、人間と神とではその方向性が異なるのです。人間の場合は価値が先にあって愛が生じますが、神様にあっては愛が先行し、価値が後続するわけです。私たち人間は、様々な基準で自らと他者の生命の価値付けをし、生命の絶対的尊厳を見失いやすいようです。性別、人種、出身地、学歴、職歴、容姿、能力、体力、健康など、数え上げればきりがありません。人類はそれらの基準で生命を価値付け、序列化してきました。その結果、生命の尊厳の絶対性は見失われ、それが相対化されてしまいました。特に、世俗化が進み経済至上主義的になった現代社会においてはそのことは顕著です。
聖書が語る生命の尊厳の絶対性の根拠は神の価値発見的愛にあります。神様はその命の状態に関係なく、人類すべての命を愛しておられます。それ故にすべての人命には絶対的な価値があるのです。「私たちの目」は、自らと他者を価値付けし、愛すべき命と愛すべきでない命を選別し、命の尊厳を損なわせているのかもしません。しかし、「私の目」すなわち神様の目はすべての命を愛し、そこに命の質に一切依存しない絶対的な価値をお与えになられました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
生命の価値基準は「わたしの目」という絶対者だけが有しているのです。そして「わたしはあなたを愛している」という絶対的な愛の主体こそが私たちに生命の尊厳を保障してく
ださるのです。
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