手段を選ばぬ子孫存続〜ロトの二人の娘
「さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう」(創世記19章32節)
「お家断絶」という言葉が日本にはあります。従来、個人より「家」の観念が支配的な日本社会においては、子孫の存続は重大問題でありました。妻が不妊であることは、それだけで、十分な離婚理由となり得ました。そのような傾向は、近代化される以前の社会には洋の東西を問わず普遍的であったようです。特に古代社会にあっては、種族の子孫存続は至上命令であったと思われます。
聖書を読めば、古代イスラエル社会も例外ではなかったことが分かります。創世記38:8に記されたオナンの記事や申命記25:5に記された律法によれば、当時、子がないままで死んだ兄の弟は、兄嫁と結婚し、子どもをもうける義務がありました。これは「レビラート婚」と呼ばれ、旧約時代は神様の御心でもありました。このようにイスラエル民族にとっても子孫存続は、至上命令であり、同時に神様の御心でもあったわけです。
さて、冒頭の聖句です。ソドムとゴモラを脱出したロトと二人の娘はやがて人里離れた山奥の洞穴に住むこととなります。ロトの妻は、そこにはいませんでした。彼女は、ソドムへの執着からでしょう、後ろを振り返り、塩の柱となりました。ここに、父と娘二人だけという孤立した閉鎖的な社会が作られます。
そのような生活が続く中、姉が妹に言います。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。」実に的確な現状分析です。父親は高齢であり、子種が尽きるのも時間の問題です。また、人里離れた洞窟生活では、二人の娘は通常の結婚を望み得ません。従って、子孫存続の願望を達成のためには冒頭の聖句のような方法しかないと判断したのです。
古代社会においては、子孫存続の要求は強烈であったはずです。二人の娘が持った子孫存続の願いは神様の目から見ても、正当であり、純粋なものであったことでしょう。しかし、どのような純粋な目的であったも、それが手段を正当化するとは限りません。性の世界には、御心である手段と御心でない手段ががあります。そして聖書はそれを明確に判別して記しています。ロトの娘がとった手段は明らかな近親相姦であり、これは御心に反するものでした。
いくら、子孫を残すことを切望したとは言え、近親相姦の罪を犯したことは、ロトの一家がソドムの生活に強く影響さていたことを示すものです。ある説教者はロトのことを「たくあんクリスチャン」と表現しました。大変分かりやすくかつ的確な表現だと思いませんか?漬物の汁が染み込み、真っ白な大根が染まってしまうように、ソドムという罪に満ちた社会の中でロト一家は信仰者としての聖さを失ってしまったのです。当然、性倫理についても影響を受けていたと思われます。快楽最優先の秩序なき性行動が支配的であったソドムにおいては、同性愛だけではなく、近親相姦も一般的であったことでしょう。ソドムでの長年の生活を通してロトの娘たちは性に関しての基本的な倫理観も麻痺してしまっていたと思われます。
では、近親相姦による子孫存続は、祝福につながったでしょうか。姉が産んだ男の子はモアブ人の祖先に、また、妹の産んだ男の子は後のアモン人となります。それぞれの民族は祝福された民であったでしょうか。
民数記の25章によれば、約束の地、カナンを目前にした出エジプトの民はモアブの娘と性的な関係を持ち、偶像礼拝に走ります。また、レビ記18章21節にはモレク礼拝に子どもを犠牲として捧げることが禁じられています。このモレクはアモン人の神です。つまり、モアブもアモンも、イスラエルを誘惑し偶像礼拝に陥れるような民族となったのです。
多分、ロト一家の近親相姦は、直接の読者であったイスラエルの民への警告を目的として記されたのでしょう。モアブ人とアモン人がその起源からして罪深いものであり、その習慣に倣わないようにとの警告が込められていると思われます。聖書の記述によれば、二つのたみは祝福されたとはおよそ言い難いことがわかります。
一般に倫理学では、評価対象となる行動を、目的と手段と結果に分けて評価します。ロトの娘たちの性行動を倫理的に評価してみましょう。子孫存続という目的は正当です。しかし、その手段として選ばれた近親相姦は明らかな罪です。そして、その結果、発生した二つの民族は、神様の祝福を妨げる民となりました。いかに正しい目的であっても、手段が間違っていれば、悪い結果を生むのです。
そこで、目を現代に向けてみましょう。近代化された日本の社会でも、頭脳が近代化されていない方々も多く、未だに子孫存続が至上命令とされている場合が少なくありません。当事者の夫婦だけでなく、周囲の切望や圧力もあり、不妊の夫婦は大変です。
その結果、「現代版ロトの娘」が登場します。現在、日本の医療現場の一部では、手段を選ばぬ子孫存続が行われます。実に様々な不妊治療があるようです。たとえば、配偶者間での体外受精はその代表です。このことの是非については、聖書的には評価が分かれるところです。これが不妊という障害を解決する医療行為だと考えれば、倫理的に問題はないでしょう。一方、愛し合う夫婦が一体となる中で子どもが与えられることが聖書の示す原則であり、一切の例外を認めないという立場に立てば、倫理的に認めることはできません。
夫以外の第三者の精子を用いての不妊治療もあります。中には、血縁を重んじる日本社会らしく夫の兄弟や父親の精子を用いる場合もあるそうです。夫が生きているのですから、レビラート婚とは言えません。また、性的な関係はないとは言え、近親相姦同様の結果をもたらすのですから、これは考え物です。
どうも、子孫存続を願う人間側の心は、ロトの時代も現代も変りはないようです。しかし、現代にあっては、医療技術や生命操作の飛躍的な発展によって、従来ならあきらめるべきケースも、希望達成が可能となりました。今や、人類はかなりのレベルで生命の誕生を管理できるようになりました。それは、一面においては、不妊夫婦にとっての喜びでありましょう。しかし、神様が良しとされる手段かどうかが問題です。
現代の日本社会にあっては「欲望達成=幸福」というのが公式化しています。その中にあって、私たちは忘れてはならないことがあります。欲求の達成がそのまま、祝福につながるとは限らないのです。手段の是非が、その後の祝福と呪いを分けるのです。神様が良しとされない手段によって達成された悲願は、残念ながら最終的には祝福に反する結果を生むのです。やはり、様々な不妊治療の手段に対しては、聖書的な立場から神学的なアプローチをもって倫理的な判断が為される必要があるでしょう。何千年も前のロトの娘の事件は、21世紀に生きる私たちにそのことを警告しているかのようです。
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