胎内での生存競争〜エサウとヤコブ
「子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、『こんなことではいったいどうなるのでしょう、私は。』と言った。そして主のみこころを求めに行った。」(創世記25章22節)
アブラハムに与えられた約束の子、イサクは成長し、創世記24章においては結婚します。しかし、妻のリベカは不妊でした。イサクは妻リベカのために祈ると、主は答えてくださり、結婚以来20年目にしてリベカは身ごもったのです。
待望の子を与えられたリベカも妊娠中は不安に陥れられました。胎内の子どもたちが激しくぶつかり合っているのです。リベカが自分の妊娠に異常が発生したと考え、出産に不安を覚えたのは当然でしょう。神様が祈りに答えて命を与えてくださったのに、不安定な状態が続くことは納得が行きません。そこでリベカは主にみこころを求めます。
神様はリベカの胎内には二人の子どもではなく、二つの国があることを告げます。その宣告の通り、弟ヤコブは後のイスラエル民族の先祖に、兄エサウはエドム人の先祖となります。出産時に弟ヤコブが兄エサウのかかとをつかんでいたことは実に象徴的です。二人は胎内でどちらが先に生まれて長子の権利を得るかという争いをしていたのでしょう。
生まれた後の二人は双子でありながら、性格も生活も正反対でした。後に和解するまで、二人の関係は長年にわたって険悪なライバル関係であり続けたのです。双子の兄弟が胎中でぶつかりあっていたことは、生まれる前から既にライバル関係であったことを示しているのでしょう。
そこで、いつものように時代は飛んで現代の日本です。今、日本では「現代版エサウとヤコブ」とも言うべき争いが母胎内で起こっています。エサウとヤコブの場合は「どちらが先に生まれるか」の順位競争でしたが、現代版の胎内戦争は、さらに厳しい生存競争なのです。「どちらが先に生まれるか」ではなく「どちらが生き残り、どちらが殺されるか」という生死をかけた争いなのです。勝者となった胎児は生まれることが許され、敗者となった胎児は、その命を闇に葬られるという実に厳しい生存競争なのです。
その「現代版エサウとヤコブ」、胎内の生存競争というのが、多胎児中絶の問題です。多胎児中絶とは、正確に表現するなら、多胎児の一部を選別的に中絶することを意味します。例えば、ある母親が三つ子を身ごもったとしましょう。そのような状況の中、母親とその家族は、住宅事情や経済状態などの人生設計から、三つ子の出産は望まないが、双子なら出産し、育てられると判断します。そして、胎内に生きる三人の胎児の一人を中絶することを希望します。
そのような患者の希望を医者が実現します。これが多胎児中絶です。現在、日本ではこのような多胎児の中絶が問題となっています。その背景には多胎児が近年、飛躍的に増加しているという現実があります。皆さんの中には昔に比べると地域や学校の中で、かなり多くの双子を見るなあと実感しておられる方も少なくないでしょう。統計上からもそのことは明らかです。出産の全件数に対する多胎児出産の割合は、近年、飛躍的に上昇しています。
その原因は不妊治療の普及にあると言われています。その代表としては排卵誘発剤の使用が挙げられます。排卵誘発剤の使用は妊娠を容易にしますが、その反面、多胎児を身ごもる確率が著しく増加します。一昔前にブームとなった五つ子ちゃんたちは、そのようなケースです。
また、不妊治療の一環として行われる体外受精も、多胎児の確率を飛躍的に高めます。体外受精においては、一つの受精卵を子宮に戻すのではありません。複数の受精卵を、それが着床することを期待して子宮に戻します。そうすれば、複数個の受精卵が着床する確率はおのずと高くなります。ですから、体外受精においては、通常の妊娠以上に多胎児となるケースが多くなるわけです。
しかし、一方、多胎児の出産となると様々な問題が起こります。少子化志向の現代にあっては、多胎児はあまり望まれない傾向にあります。住宅事情、子どもの教育費などを考えると、子どもは二人までと考えるのが一般的な日本の夫婦でしょう。ですから、多胎児出産は親夫婦の快適な生活環境を脅かし経済を圧迫することを意味します。
また、母親個人にとっては、多胎児となれば、妊娠出産の負担も大変なものです。さらに、母親は出産後の育児負担も考えなければなりません。夫婦の両親など、かなりの時間と労力を裂いてくれる育児支援者が期待できなければ、多胎児を育てることに不安を覚えざるを得ません。
そこで、母親とその家族には多胎児の一部を中絶したいという要求が生まれます。例えば、「三つ子は困るので、一人を中絶して、双子として出産したい」という希望が妊婦とその家族にあるとします。そして、その希望が産婦人科医に告げられます。現在の産科の医療技術としては、このような患者の希望を実現することは十分可能です。しかし、通常の中絶手術には、躊躇を覚えない医師も、この多胎児の選択的中絶には躊躇を覚えるようです。マスコミの報道などによれば、実際に、多くの医師は手術を断るそうです。
その理由は、現在の日本の法的不備にあります。実は、多胎児の選択的中絶は、法律的根拠がないです。厳密に法解釈を行えば、その手術は違法行為となり、手術を行った医師は法的に罰せられることになるのです。
そのことを簡単に説明しましょう。現在に日本において中絶手術は母体保護法という法的根拠によって行われています。その母体保護法は、堕胎罪の一部例外規定として位置づけることができます。日本の法律では、まず前提として堕胎、すなわち中絶を違法とする法律があります。つまり、本来、日本の法律では中絶は原則的に違法行為なのです。そして、そのような前提に立って母体保護の観点から、様々な条件や限定の中で、本来違法である諸事情によって例外的に法的に認めるというのが母体保護法です。
しかし、日本での中絶手術のほとんどは母体保護のために行われているとは言い難いものです。実にこの経済大国日本にあって、中絶手術の99パーセント以上は母体保護法の中の「経済的理由」を根拠に行われています。誰の目にも、これが名目上の理由に過ぎないことは明らかです。ですから日本においては、都合の悪い妊娠や望まない出産は、事実上「経済的理由」という名目によって、母体保護法という法的根拠を持つ中絶手術によって簡単に闇に葬り去ることができるのです。
ところがこのような法的な体制の中では、多胎児の選択的中絶は法的な根拠を持ちません。胎内の胎児全員を中絶することは、「経済的理由」という名目をつければ、合法的な行為となります。しかし、多胎児の一部を中絶することは従来の中絶手術の概念にないことです。ですから、現代の法律を厳密に解釈するなら、何人かを残し、何人かを中絶するような手術は、法的を持たないこととなります。ここに胎児全員の中絶は合法であり、一部の中絶は違法であるという、著しい矛盾が生まれるのです。
そこで、多くの医者は違法性を帯びている多胎児の選択的中絶は行いたくないと考えます。その場合は、多胎児を身ごもった母親には、通常、胎児全員を出産するか、全員を中絶するかという二つの選択しかありえないのです。一方、そうした不備を問題視して多胎児の選択的中絶をする医者もいるようです。今のところそうした手術をして、処罰を受けたという報告はなさそうです。
よく考えてみれば、多胎児の選択的中絶を希望する方のほとんどは、不妊治療をしたはずです。妊娠出産を切望して治療を受けたのにもかかわらず、一旦多胎児であると分かるれば、一転して中絶を希望するのは、都合が良すぎるのではないでしょうか。
不妊治療を受ける患者は、多胎児となる可能性が高いというリスクを覚悟しなくてはなりません。医療現場では、当然、そのうようなリスクは伝えられていると思います。その意味でもインフォームド・コンセントが徹底される必要があるように感じます。「不妊治療には多胎児出産というリスクが伴う。治療の結果、多胎児を出産することになっても選択的中絶はしない」ということが医者から患者へ明確に伝えられる必要があり、同時に患者家族もそのことを理解した上で、自己責任において手術を受ける必要があるでしょう。
また、何より不妊治療を受けてまで、与えられた命なら、その尊厳を重んじ、できる限り全員の出産を目指すのが、親としての本分ではないでしょうか。
法的な矛盾があるのだから、これを改めて多胎児の一部を選択的に中絶することも、従来の中絶同様に扱うべきだという主張もあります。しかし、法律は現実の社会変化に対応すべきだという論拠はあまりに一面的です。人間側の都合で、胎児の数を限定し、余分な命は闇に葬るという行為を法的に認めてよいのかという倫理的判断が優先すべきではないでしょうか?生命の管理という社会的要請よりも、生命の尊厳こそが優先される社会であって欲しいと願います。また、日本の法律が、そのような社会形成のためのものであって欲しいと願います。
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