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性は生にして聖に通ず
  1. 反省だけならサルでもできる、合体だけならロボットでもできる
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第1回「反省だけならサルでもできる、合体だけならロボットでもできる」

一昔前、反省ザルが人気を博しました。それを受けて「反省だけならサルでもできる」というCMがヒットしました。確かに反省のための反省、その後何ら活かされることのない反省というものがあります。「その程度の反省なら、サルでもできる。反省を活かして改善し、前進してこそ人間なのだ」ということでしょう。

 現代の日本の性を同じように表現するなら、それは「反省だけならサルでもできる、合体だけならロボットでもできる」となりそうです。日本社会では、性が人格との結びつきで語られることは極めて少ないように思います。むしろ、性が肉体上の行為や現象として伝えられているのが現状です。その結果、「性とは体に関すること」、「性行為=合体」という意識が日本社会に定着しつつあるようです。

 私たちを取り囲む性に関する情報を検証してみれば、そのことは明らかです。学校教育における性教育はよく「性器教育」と批判されます。その教育内容は、性の肉体的な側面に偏りすぎています。肉体上の機能や生理現象に関する知識が中心で、子どもたちに与えられる教材は、まるで生理学か解剖学の教科書のようです。これでは、子どもたちに向かって「性とは、心でなく体のことだ」と教えているようなものでしょう。

 さらにテレビ、雑誌等のマスコミにおいては、その傾向が徹底しています。それらが伝える性は人格性を剥ぎ取られ、商業化されたものが主流です。そこにおいて、性は読者の感覚的な快楽追求を前提として、極めて興味本位に扱われています。
 このような性情報が氾濫する社会の中で生活する者が、どのような性意識を持つに至るかは容易に予想がつきます。特にこのような日本の社会の中にあって、価値観や人格の形成期を送る子どもたちには、その影響が最も顕著に現われています。いわゆる援助交際する少女たちは、性と人格の分離、性の商品化による最大の犠牲者と言うべきでしょう。

  では、人類にとっての性と生の規範を示す神様からのプレゼント、聖書は何と語っているでしょう。創世記2章24節は次のように教えます。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(新改訳)。

 聖書が示す性は、「父母を離れ」とあるように親から自立した男女が、「妻と結び合い」とあるように結婚生活の中で「一体となる」ことなのです。聖書は、自立した男女の結婚生活という前提の上で、その性行為を「一体」という言葉を用いて表現しています。

 そこで、この「一体」という言葉の意味について少し説明しましょう。「一体となる」とは字のごとく、体を一つとすること、つまり肉体的な結合を意味します。しかし、それだけではないのです。ここで「体」と訳されている原語(ヘブル語)は単に肉体を意味するに留まらない全人的な概念を持つ言葉だそうです。それは、人間の心と肉体の両方、すなわち人間存在全体を意味する言葉なのです。

 聖書の中で「体」という言葉は時に肉体だけでなく、その中にある心を含めた全体を指す場合があります。ローマ人への手紙12章1節はその代表例です。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそあなたがたの霊的な礼拝です」。

  体は礼拝の場に置きながら、心はバーゲン会場や野球場にあったのでは、それは礼拝とは言えないでしょう。一方、「体はバーゲン会場や野球場にいても心は教会の礼拝に来ています。」というのも信用なりません。心だけ、あるいは体だけの礼拝、それはどちらも真実な礼拝とは言えません。礼拝とは全人格、全存在を捧げる行為です。心と肉体という私たちの全存在を神様に対して捧げることこそが真実の礼拝なのです。このようにローマ人への手紙12章1節の「からだ」は肉体に限らず人間の全存在を意味するものなのです。

 同じように創世記の「一体となる」という言葉も、単に肉体的な一致や結合を意味するものではありません。それは、肉体を越えた精神的、全人格的な一致、結合を意味します。まさに、性的な一致とは二人の男女が心身ともに一体となる事を意味するのです。体を一つにするということは、その中に宿る心を一つにするということに他ならないのです。

 イエス様御自身もマタイの福音書19章5節でこの聖書箇所を引用しておられます。しかし、大変興味深いことに新改訳では「一体」にあたる箇所が「一心同体」と訳されているのです。原語(ギリシャ語)も、人間の全存在を意味する「体」という語が用いられています。創造における神様の目的は夫婦が一心同体となることであったのです。神様が性をお与えになったのも、まさに夫婦が心を一つとするためであったことが分かります。

 聖書が示す祝福の性は「一体」です。心身両面における一致なのです。性を人格と切り離し「合体」と考え、感覚的な刺激と快楽をのみを追求する姿勢、私たちはそれを決して「性の最先端」と呼んではならないでしょう。むしろ、聖書的な視点から見るなら、そのような性の世界に生きる人々は、、性の落第者に過ぎません。人間の基準に達しないロボット並みの性行動だからです。聖書は明確に示しています。夫婦間に与えられた「一体」こそが人間本来の性なのです。そして、そのような一体の中にこそ、精神的にも肉体的にも、深い満足や喜びがあるのです。

 現代の日本の性が人格性を失い「一体」から「合体」へと堕落していくのを、神様はどんなに悲しい思いでご覧になっておられるでしょう。

そこで今回の一言。

「反省だけならサルでもできる、前進してこそ人間だ。合体だけならロボットでもできる。一体こそが人間の性なのだ!」


日本の社会にあって、お互いが家庭や教会の中で「一体」としての性を伝え、証しする者でありたいと願って止みません。
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