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性は生にして聖に通ず
  1. 反省だけならサルでもできる、合体だけならロボットでもできる
  2. プリンは甘いが、不倫は苦い
  3. 性表現は世に連れ、世は性表現に連れ
  4. 枯れ木ほどよく燃える?
  5. 隠せよ、さらば隠されん
  6. 日本人男性性行動批判
  7. No!と言える日本女性
  8. 「瀬戸の花嫁」は幻想曲か?!
  9. サマリヤの女は演歌の女か?
  10. 日本にも押し寄せる?同性愛容認化の流れ
  1. 同性愛、人権尊重=容認なのか?
  2. 古今東西、絶えることなきラバンの悪行
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第2回プリンは甘いが、不倫は苦い

不倫は文化か?
 かつて人気男優の石田純一さんが「不倫は文化だ」と発言し物議をかもしました。源氏物語をはじめ、不倫は確かに日本の文化を作り上げてきた一大要素です。それは現代でも同様です。その最も身近で分かりやすい例として演歌の歌詞を検証してみましょう。

 「北の酒場通りには長い髪の女が似合う ちょっとお人好しがいい 口説かれ上手の方がいい」(北酒場)
 さすがはレコード大賞受賞曲。男性の不倫願望を見事に描き出しています。
 しかし、よく考えてみると酒場の女性は大抵したたかに決まっています。お人好しで口説かれ上手の女性などそうはいません。何と勝手で非現実的な不倫願望でしょうか。

 「芸のためなら女房も泣かす それがどうした文句があるか」(浪花恋しぐれ)  これは究極の開き直りです。芸人魂を名目とした性的欲望の無限肯定、妻の心情を顧みぬ極度の自己中心的態度、罪悪感を隠蔽する開き直り、家庭人としての責任放棄。冒頭の4小節だけでみごとなまでに不倫の本質を表現しています。

 「あなた、変わりはないですか 日ごと寒さが募ります 着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでます」(北の宿から)
 今は故人となられた淡谷のり子さんは、この歌詞を「寒さの中、着てもらえないのなら、編みなさんなよ。あんた風邪引くよ」と酷評なさったそうです。確かに「決して幸福になり得ない恋愛を捨て切れないでいる、決断力も主体性もない女性の自己弁護」という解釈も可能でしょう。

 このように演歌の描く性の世界は、男性にとっては、「都合の良い無責任な性」、女性にとっては、「不幸な性」がほとんどです。なぜでしょうか。それは、演歌の描く性の世界が結婚外のものだからです。石田純一さんの発言のように、日本文化がそこにある種の美を見い出してきたとしても、文化貢献度が倫理性を決めるわけではありません。「美しきもの必ずしも善ならず」です。
では、神様の言葉、聖書はこのことについて何と語っているでしょうか。

性の前提としての結婚
 「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)と聖書は私たちに教えます。ここでの「結び合う」という言葉は社会的概念を持つそうです。つまり、新家庭を形成すること、結婚生活を意味します。そして次にある「一体となる」とは性生活を表わす言葉だそうです。

 この順番が大切なのです。この順番から明らかなように、聖書は結婚生活を性生活の前提として位置づけているのです。結婚生活あっての性生活なのです。つまり、神様は「性という祝福」を「結婚」という範囲に限定されたのです。 神様は意地悪でもけちでもない
  「結婚外の性が罪なんて、クリスチャンは損だなあ、不自由だなあ」そんな声もどこからか聞こえてきそうです。
しかし、神様が性という祝福を結婚という秩序の中にとどめられたこと、それは意地悪でも自由の制限でありません。それどころか、それは最大限の自由と幸福の保証、そして性的な不幸からの保護のためなのです。ひとり子さえ惜しまずに与えられた神様が、どうして私たちの性的な祝福を意味もなく制限するでしょうか。

 冒頭に紹介した「演歌の女」が生まれる原因は何でしょうか。それは、その性関係が結婚外のものだからです。どんなに愛し合っていても、結婚外の性関係には平安に満ちた幸せなどありません。それは、女性にとってはいつ捨てられるか分からない不確実な関係です。一方男性にとっては嫌になったらいつでも解消可能な都合のよい関係です。

 そして、やがて結婚外の性関係が破綻しようものなら、後に残るのは何でしょう。愛し合ったことへの後悔、裏切られた憎しみ、捨てられた惨めさでしょうか。性を与えた上で裏切られ捨てられた時、女性の心の傷は計り知れないものでしょう。

  結婚制度こそが幸福な性をもたらす
 ところが結婚関係における性は違うのです。結婚という制度は、私たちを、特に女性を性的な不幸から守ります。結婚とは契約による責任ある関係です。教会での結婚式における誓約の中心は「堅く節操を守ること」です。それは性的な喜びを結婚内だけで守るということです。分かりやすく言えば、不倫はしませんということです。

 ボンヘッファーという神学者がこう語ったそうです。 「愛が結婚を持続させるのではなく、結婚と言う制度が愛を持続させるのだ。」
 何と深い真理を表現した言葉でしょうか。 恋愛関係にあっては恋愛感情が二人を結びつける大きな要素です。しかし、残念ながら恋愛感情は感情ですから、いかにも不安定です。時が経ち、状況が変化すれば感情は移り変わります。しょせん恋愛関係は「嫌になったら止めればよい」という責任を伴わないものに過ぎません。

 これは私の持論ですが、似ているようで似ていないのが恋愛と結婚です。結婚は時に恋愛の延長線上にありますが、両者は似ても似つかないほど異なるものです。
 一方、似ていないようで似ているのが結婚と就職です。両者とも契約関係で「嫌になっても簡単には解消せず、忍耐を持って努力すべき責任ある関係」だからです。
  そうです。結婚関係は恋愛感情に基づくものではありません。恋愛感情は結婚の起爆剤ではあり得ても、防腐剤にはなり得ません。恋愛感情だけで結婚を持続しようとすれば、必ず行き詰まります。結婚を持続させ、発展させるのは「恋」ではなく「愛」です。そして、その愛を持続させるのは責任意識です。責任意識が愛する意志を私たちに与えます。
その責任意識を持続させるのが結婚という制度なのです。

 結婚関係の基盤は契約です。そこには責任が伴います。相手に貞操を求めると同時に自分も相手に対して貞操を守る責任があります。それは「嫌になったら止めればよい」関係ではありません。「嫌になっても裏切らない、嫌になっても捨てない、嫌になっても愛する努力をする」関係です。そう簡単には破綻しない関係なのです。

 そのような関係でのみ、安心して自分を相手に捧げられるのです。心と体を含む自己のすべてを相手に与え尽くす性という行為は、そのように責任を伴う安定した信頼関係の中で営まれるべきなのです。そこにこそ、平安で愛に満ちた性本来の喜びがあるのです。聖書的に言うなら、夫婦愛だけが本物の性愛なのです。

そこで今回の一言。

「プリンと不倫、一字違いで大違い。プリンは甘いが、不倫は苦い。」

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