第3回「性表現は世に連れ、世は性表現に連れ」
歌は世に連れ、世は歌に連れ
「歌は世に連れ、世は歌に連れ」と言います。流行歌の世界では、優れた作品が必ずしもヒットするわけではないようです。その音楽性が時代の耳に訴え、その歌詞が人々の心に共感を与える時、大衆からの支持を受けるのでしょう。作品の優劣とともに、社会と時代からの受容と共感がヒットを生み出す要素と言えそうです。
一方、一つの曲が時代の声、社会の反映となる時、それが逆に人々の価値観や感性を形成します。戦後日本社会の精神に少なからぬ影響を与えた故美空ひばりさんや世界中の若者文化をリードしたビートルズの曲などは、その一例でしょう。ある時代と社会が歌を生み出します。しかし、生み出された歌は、生み出した側の時代と社会にある感性や価値観を生み出すのです。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」とは、実に的確な表現と言えるでしょう。
実は、同じ事が性表現とそれを生み出す時代・社会との関係にも当てはまるようです。そこで今回は、日本社会が生み出してきた性表現と、その時代に生きた人々の性意識の関係を共に見て行きましょう。
日本古来の性表現
古代日本社会では、性の営みを表現するのに「まぐわい」という言葉が使われたそうです。「古事記」の文中にも、男女の神が「まぐわい」をしたと記されています。「まぐわい」の「ま」とは「目」のことで、「くわい」とは「くわえること」を意味するのだそうです。目と目を合わせて、愛の営みを行うことから来た表現かと思われます。「目は口ほどに物を言う」と言いますが、目と目を合わせるとは、まさに人格的な愛のコミュニケーションです。体だけの関係ではなく、心と心の通い合いです。聖書の性表現である「知る」に通ずるものを感じさせます。
さらに時代は下って、江戸時代以降は「情を通ずる」とか「お情けを頂戴する」と表現したようです。私が初めてそのような表現に触れたのは、テレビの時代劇「大岡越前」を見ていた時です。大岡越前が美しい人妻に自白を迫ります。するとこの女性が「備前屋様からお情けを頂きました」と泣き崩れるのです。小学生の私はそれを見て「そうか、備前屋さんは、情け深い親切な人だったのだなぁ」と思いました。「このきれいな奥さんは、泣けるほど親切にしてもらったのだなぁ」と感心していました。今、思い出しますと自分でも笑ってしまいます。それが不倫を自白していたのだと知ったのは随分後のことでした。
「まぐわい」同様、この「お情け」という表現に私は好感を覚えます。そこには、性関係が単なる「肉体関係」ではなく、心と心の通い合いであることが示されているからです。もちろん、日本にも古来より、性を人格や愛と切り離した文化は存在しました。しかし一方でこれらの性表現を見る限り、日本人は性を心と心の通い合い、全人格的な交わりとして理解していたと思われます。少なくとも性の持つ肉体的な面を前面に出すことを控えて、情緒的に表現していたのは間違いないでしょう。
現代日本における性表現
ところが、ところが、ここ数十年で性表現も激変しました。今や性行為を「男女が愛し合う」などと表現したら、若者たちに笑われてしまうかもしれません。現代の性表現は、まさに現代人の性意識を投影したものと言えるでしょう。
1980年代を代表する性表現は、「にゃんにゃん」でした。どうも、猫の交尾に喩えた表現かと思われます。私などは「人間の崇高なる性行為を動物並みに卑しめるとは、何と冒涜的な!」と思ってしまいます。なぜなら、人間の性行為は動物の交尾とは全く異質、異次元のものだからです。動物の性行動は生殖のみを目的とした本能によるものです。しかし、人間の性行動は生殖に限らず、愛の交わりをも目的とした、本能だけではなく人格による行為だからです。
まさに「にゃんにゃん」とは、人間の性行為から、人格を排除し肉体面のみを表現したものと言えるでしょう。
続いて1990年代に登場するのが「エッチする」です。やはり、この表現も人格性や愛を感じさせません。「エッチ」という表現の中に、私などは、「欲望達成至上主義」や「快楽主義」の匂いを嗅ぎ付けてしまいます。それは、欲望達成が最高の善とされる高度経済社会らしい表現かもしれません。あるいは、世俗化が徹底した社会にあって、快楽主義に何の反省もしようとしない世代が生み出した、実に即物的な言葉と言うべきでしょうか。
そこには、もはや従来の性道徳に対する反発すら伺われません。新世代のリーダーたちは、性道徳など全く最初から無視し、あざけり、笑い飛ばしているかのようです。「性に人格や愛は必要ないじゃん。やりたいことやって楽しければ、それでいいじゃん。」
「エッチする」という表現には、そのような性に対する開き直りが見られるようで残念です。
世は性表現に連れ
「にゃんにゃん」や「エッチする」は実にドライでライトな感覚の言葉です。そこには性についての、従来の暗く陰湿なイメージはありません。その現代的な感性には評価すべき点もあるでしょう。しかし、言葉が持つものは感覚や印象だけではありません。言葉とは意味内容を持つものです。言葉は外に発せられるなら、それはコミュニケーションの手段となりますが、内側に取り込まれた時、それは人間の意識を形成します。的確に表現された言葉は人を造り替え、社会を動かすほど力あるものなのです。
「にゃんにゃん」、「エッチする」、これらはどちらも性を人格から切り離し、肉体面と快楽面だけに注目した現代人の性意識が生み出した言葉でしょう。しかし、一旦生み出されたこれらの言葉は、さらに人々の意識に拍車を掛けます。これらの表現は、そこに示されている性意識を日本の社会に定着させてしまったようです。
今や性を即物的に見ることが傾向ではなく、定着し、徹底しつつある日本の社会を憂えずにはおられません。神様が性に与えられた人格性や愛が失われて行くことは、21世紀に生きる人々の性的堕落、さらには日本社会全体の荒廃につながるのはないでしょうか。
そこで今回の一言。
「性表現は世に連れ、世は性表現に連れ」
日本社会が生み出した性表現と、そこに生きる人々の性意識が連動することのないよう願わずにはおられません。
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