サマリヤの女は演歌の女か?
演歌の女、その典型
先日、既婚女性10名程が出席する学びの中で、このような質問をしました。 「皆さん、演歌に登場する女性はどのようなタイプか考えながら、今からの質問に答えてください。」
そこで、第一問です。「演歌に登場する女性、髪は長いでしょうか?短いでしょうか?」
全員一致で声をそろえて「ながーい!」
続いて第二問、「色白でしょうか?色黒でしょうか?」
これまた全員一致で「いろじろー!」
さらに質問します。「その髪が長く色白の女性はどこにいるでしょうか?」
すぐさま二つの答えが出ます。「酒場!」「波止場!」
「では、そこで何をしているでしょうか?」
これも即答です。「泣いている!」「待っている!」「お酒を飲んでいる!」
予想通りの回答が出たところで私がまとめます。「そうです、演歌に登場する女性は決まって、髪が長くて色白で酒場や波止場で、泣いているか、待っているか、お酒を飲んでいるのです!」
ここで、一同大爆笑でした。
つまり、ショートヘアで日焼けした女性が、美術館で絵画鑑賞していたり、スポーツクラブでエアロビをしていたりでは演歌にならないわけです。演歌の女は知的で活発であってはなりません。
さらに演歌の女は騙されたからといって報復したり、裁判沙汰にしてはならないのです。ひたすら泣いて耐えるのです。愛に裏切られながら、別れる決断もできなければ何の行動も起こし得ない、それが演歌の女の姿であります。
サマリ屋の女?
聖書の中にもそのようなイメージの女性が登場します。「ヨハネの福音書」4章に登場する、あのサマリヤの女のことです。
もし、サマリヤの女について冒頭と同じ質問をしたら、演歌の女同様の答えが返ってくることでしょう。世間の目を避けてわざわざ暑い真昼に井戸まで水を汲みに来る彼女は、まさに日陰の女です。彼女が日本の聖書読者に与えるイメージは、やはり「色白で髪が長く、酒場で独り泣いている」といったものでしょう。
かなり強引に演歌調で描くなら、彼女は飲み屋「サマリ屋」の美人女将です。女将さんの美貌に惹かれてやって来る男性客中心のこの飲み屋、結構繁盛しています。
客から求婚されると情に厚いこの女将、あまり考えもせず情熱に任せて結婚に突入。しかし、その結婚はいつも惨めな破綻で終っていくのです。
聖書は彼女が過去に五人の夫を持ったことを記しています。結婚生活の中、愛し愛される喜びや性に伴う感覚的な喜びも次第に色あせていったのでしょう。彼女はつねに喜びの絶頂にいなければ満足できないタイプの女性であったのかも知れません。
演歌の女を超えるもの
しかし、この女性、よく考えてみると簡単に「演歌の女」では片付けられない要素が多々あります。まず、彼女は敗れた愛にいつまでもしがみつくような女性ではありませんでした。それを捨て去る勇気も、別れるという決断力も持っていました。「別れても好きな人」の世界を脱して、「別れたら次の人」と考えることのできる立ち直りの早さやバイタリティーも備えていたようです。これはおよそ演歌的ではありません。
むしろ、ここに見るのは本物を追求し妥協を許さぬ態度であり、主体的で逞しい女性像ではないでしょうか。彼女が五人もの夫を持ったのは、真実の愛、色あせることなき喜びを求め続ける彼女の、本物志向の裏返しであったとも考えられます。
この女性は世間体よりも、自分の本物志向を優先する強烈な自我の持ち主であったのでしょう。周囲の女性たちからの軽蔑の眼差しには、そのような彼女の生きざまへの羨望が混じっていたのかも知れません。
日本の既婚女性は今
この点で、多くの日本女性はサマリヤの女とは正反対のようです。統計によりますと、日本では40代50代の女性のほぼ半数は離婚を願っているそうです。ただ、実際には世間体や子どものこと、さらに経済的自立の可能性などを考えるので、決断ができないだけだと言われています。
そのような周辺的な要素を排除し、純粋に夫婦関係の評価だけから決断するなら、そこにはやはり「離婚」の二文字が浮かび上がるのです。
私はよくこのような質問を受けます。「アメリカにはキリスト教的な背景があるのに、なぜ日本より離婚率が高いのですか?」
皆さんなら、どうお答えになるでしょう?私なりの回答をご紹介しましょう。これは私の未熟な持論に過ぎませんが、アメリカ人はキリスト教的である以上に、本質にこだわる本質主義者であり、また、個人の幸福度を考える功利主義者であり、さらに自己決定を重んずる実存主義のように思います。本質主義者にとっては結婚の本質、つまりお互いの愛情関係や信頼関係が成立しているか、あるいは修復可能かが決定要素となります。また、功利主義者は、結婚を継続した場合と離婚した場合の幸福度の比較で判断を導き出します。さらに実存主義者は、周囲の意向に沿うことよりも自分の意志で決断を下します。
このような精神性を持つアメリカ人が、日本人よりはるかに離婚を決断しやすいのは当然だと思うのですが、いかがでしょうか?
そして、このような質問に対して私は最後にこう申し上げます。「分かりやすく言いますと、死んだ結婚にお葬式を出すのがアメリカ人女性で、死んでしまったのにお葬式を出さないで放置しているのが日本女性だと思います。」
この喩えは日本女性にはかなり残酷なのでしょうが、大半の方はこれで納得してくださいます。
アメリカの離婚率においてはその数字と実情がかなり近いのに対し、日本の場合は数字と実情が大きくかけ離れているということでしょう。「離婚率=結婚死亡率」と考えるなら、実質的な離婚率は日米間であまり大差はないのでしょう。演歌の女に近いのは、サマリヤの女よりもどうやら日本の既婚女性たちのようです。
まずはキリストとの出会いから
日本社会にあっては、死んでしまった結婚にしがみつくようにして生きている女性は決して少なくないようです。彼女らは、夫は替えないものの実質的にはサマリヤの女と同じような精神的飢餓状況に生きているのでしょう。
そのような女性に対して牧師である私が切に願うこと、それはイエス・キリストとの出会いです。
サマリヤの女はイエス様と出会い、真の礼拝に目が開かれた時、真実の愛と尽きぬ喜びを得ました。彼女は、水がめを置いたまま、自分を疎外した社会に出て行き、そのことを証言しました。その言葉を通じてサマリヤ地方に大リバイバルが起こりました。イエス・キリストとの出会いは彼女自身だけに留まらず、地域社会をも一変させたのです。
このようなサマリヤの女の物語を読むときに、日本女性の持つ愛情飢餓の解決も結婚生活の再構築も、まずはイエス・キリストとの個人的な出会いから始まると思うのです。
そこで今回の一言。
サマリヤの女 主イエスに出会って ハレルヤの女
日本人女性が、演歌の女でもサマリヤの女でもない、ハレルヤの女になることを願いつつ。
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