同性愛、人権尊重=容認なのか?
問われている同性婚の合法化
2004年11月3日、ブッシュ氏がアメリカ大統領として再選、焦点は人工妊娠中絶と同性婚。翌4日には英国の国民的歌手エルトン・ジョン氏が、カナダ人と同性婚をする考えを表明(近年カナダの一部の州では同性婚が合法化)。同月9日には故ジョン・レノン氏の妻、ヨーコ・オノさんの同性婚支持の歌が全米ダンスチャートでトップに。
このように、2004年11月のある一週だけで3件もの同性婚関連の出来事が日本のマスコミを通じて報道されました。同性間の結婚を法的に認めるか否か?私たちには想像もつかないようなことが欧米社会では切実な課題となっています。すでにベルギーとオランダでは国家レベルで同性婚が合法化されており、他のヨーロッパ諸国もそれに追従することが予想されています。
同性婚カップルの中には、人工授精や養子縁組によって子どもを得て育てているケースもあります。こうした同性婚家庭が法律的にも保障され、多様な性や家庭のあり方の一つとして社会的にも承認を受けていく可能性まで見えてきました。
ここ30年での驚くべき激変
欧米では同性愛者の人権運動は、特にここ30年間では、地球規模で意識革命を起こしたと言っても過言ではないほど活発です。世界保健機関(WHO)は、同性愛を異常ではないとし、日本の精神神経医学会や厚生労働省も同性愛は治療の対象とはならないとの見解を明らかにしています。実はこうした一連の変化は、医学的な判断より同性愛人権運動団体の圧力によると言われています。
そして今や「同性愛は正当な性のあり方の一つで、人類の10人に一人は同性愛者、同性愛は生まれつきで変えることは不可能」の見解は世界的な定説になりつつあり、日本でも同様の見解が鵜呑みにされて報道されているのを耳にします。「聖書によれば同性愛は罪です」と言おうものなら差別発言、人権侵害との批判を受けかねません。
1999年のNHKアンケート調査によれば、同性愛行為について「かまわない」「どちらかと言えばかまわない」と回答したのは10代後半では男性それぞれ18%と54%、20代では33%と46%です。50代では男女それぞれ8%、12%であることを考えると、わずか一世代の間に同性愛に対しての評価が一変していることが分かります。
人権尊重は必要なのでは?
同性愛問題の複雑さは、「同性愛者の人権」と「同性愛行為の倫理的是非」が混同されてしまっていることに原因があるように思います。同性愛を倫理的に正しくないと判断し、同性愛者の人権を認めようとしない姿勢も、同性愛者の人権を尊重するが故に同性愛を容認する姿勢のいずれも、聖書的なものではないように感じます。
そこで私なりに、人権と倫理的判断を分けて考えたいと思います。まず人権についてですが、確かに同性愛者の人権は保護されるべきでしょう。神様が差別や偏見を憎まれることは聖書から見ても間違いありません。また、神の似姿に造られた者として、すべての人には決して侵してはならない人間としての尊厳が与えられているはずです。ですから同性愛者に対する差別・偏見も、他の差別や偏見と同様、あってはならないものでしょう。私は、小さないのちを守る会名古屋支部のホームページで、同性愛に関するサイトを担当しており、5年間に30人程の同性愛傾向を持つ(あるいはかつて持っていた)クリスチャンの方から連絡をいただきました。その方々が、日本の社会や教会の交わりの中で抱いている恐れや孤独感、疎外感等は筆舌に尽くしがたいものです。障害者差別や人種差別、部落差別については人権上の配慮をする日本のマスコミも、同性愛者については笑いものにしたり、キワモノ扱いします。これは明らかに、日本の社会での同性愛者差別を助長しています。
その影響なのか、教会の交わりの中でも「ホモ」「オカマ」といった言葉を用いて同性愛者を軽蔑するような発言を時に耳にします。イエス様は取税人や遊女たちを愛し、交わりに受け入れていたことを肝に銘じたいと願います。同性愛を罪と判断することは、決して同性愛者の人間としての尊厳を否定したり、軽視することを意味しないはずです。
人権尊重=同性愛容認か?
次に倫理的な判断に移りましょう。それでは同性愛者の人権を尊重することは、同性愛を容認し、同姓婚を認めることとイコールなのでしょうか?
同性愛者は、「われわれにも性的欲求を実現する権利はあるはず。まして同性愛傾向は生まれつきで変えられないのだから、同性愛行為は自然で正当な権利だ」と主張するわけです。
ちなみに私の存じ上げている同性愛者の大半は後天性であることを自覚しており、クリスチャンになり同性愛傾向を克服した方、異性愛者となり結婚した方も何人かおられます。
聖書の基準に立つなら、人権とは、その人なりの切実な欲求を無条件に実現する権利ではありません。まず、その欲求自体の正当性が問われます。聖書が保障しているのは「神が願う人間らしく生きる権利」に他ならないはずです。人間は罪人なのですから「その人らしく生きる権利」は時に罪を犯す権利にさえなりかねず、結果的に人権尊重が罪の容認となってしまいます。
絶対的な基準を失った現代社会では、旧約聖書の士師記のように「それぞれの目に正しいこと」が正しいようです。「その人らしさ」といういかにも相対的な基準が、この社会ではいとも簡単に絶対化されてしまいます。その中で同性愛者の人権はそのまま、同性愛行為を行う権利となってしまっているのではないでしょうか。
聖書の基準からすれば、少なくとも同性愛行為は御心にかなった性行為とは言いがたいものです。聖書は性を男女間のもの、結婚内のもの、いのちを生み出すものとして位置づけているからです。
聖書に立った人権尊重とは聖書から見て正当な権利を保障することであると同時に、正当でない権利を退けることではないでしょうか?また、「したいようにさせてあげること」が愛ではなく、「神様がその人にそうあって欲しいようにその人がなることを願い、そのために労すること」が愛であるはずです。その意味で同性愛を罪であると判断することは、決して同性愛者の人権を認めないことでもキリスト者の愛に反することでもないといえるでしょう。
同性愛者に対する偏見や差別を捨てること。同性愛者が教会の交わりに受け入れられ、祈りと愛に支えられ、その性愛が御心にかなったものへと導かれていくこと。この二つこそ、私たちに求められている聖書的な態度ではないかと思うのです。
「自分の家族や周囲の人が同性愛者だと分かったら、自分はクリスチャンとしてどうすべきか?」と考えてみたらどうでしょう?抽象的に思える人権と倫理的判断という問題も、少しは現実的な課題として考えられるかと思います。事実、私たちの隣人の3〜5%(日本での推定数字)は同性愛傾向を持って苦しんでいるのですから。
そこで水戸黄門のテーマソングにちなんで今回のひとこと。
人生、楽ありゃ苦もあるさ。
人権、「+」(たす)ありゃ「−」(負)もあるさ。
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