古今東西、絶えることなきラバンの悪行
聖書に見るラバンの悪行
「朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。『何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。』」(創世記29章25節)
これは叔父ラバンに騙されたと知ったヤコブの叫びです。このラバンなる人物、兄エサウに恨みを買い避難してきたヤコブ受け入れます。ところが、彼はヤコブの上をゆく卑怯者だったのです。ヤコブはラバンのもとで羊飼いとして働き始めます。ラバンには長女レアと次女ラケルという二人の娘がいました。ヤコブが妹のラケルを愛していたのを知ったラバンは、ヤコブとラケルとの結婚を報酬として7年間の労働契約を結びます。
そして7年後、いよいよ、待ちに待ったラケルとの結婚です。しかし、ヤコブの働きによって富を得たラバンは、ヤコブを手放すのを惜しみます。そこで策略家ラバンは、見事にヤコブを騙すのです。しかも待ちに待った結婚の祝宴後に!
新妻と一夜を過ごした翌朝、ヤコブは衝撃の事実を目の当たりにします。何と、夜を共に過ごしたのはラケルではなく、姉のレアだったのです。多分、暗さとベールのために、見破ることができなかったのでしょう。そこで冒頭のヤコブの叫びです。
しかし、結婚詐欺同然とは言え、レアとの間に性的な関係を持ったからには、一方的に結婚を取り消すわけにはいきません。ヤコブの訴えを聞いたラバンは計画通りに「われわれのところでは長女より先に下の娘をとつがせることはしないのです。」と白々しくも釈明。そして、ラケルとの結婚を報酬にもう7年間仕える契約を申し出ます。ラバンの卑劣さに怒りながらも、ラケルを愛するヤコブは、この申し出を断ることはできません。かくして、ラバンはまんまとヤコブを雇い続けて財を増し加えてゆくのでした。
結局、ラバンのしたことは古代社会における性の商品化に他なりません。ラバンは利益のためなら、自分の娘の性さえも利用する卑劣な父親だったのです。彼はレアの性を利用し、7年間の労働契約の延長を得たのです。ヤコブの労働力を得るために、性が金銭に換算され、商品化されたのです。
貧しい国に見るラバンの悪行
古今東西、ラバンの悪行は途絶えることはありません。特に現在のタイの貧しい家庭においてはラバンのような父親がかなり一般的なようです。ご存知のようにこの国ではエイズが国家的な大問題になっています。その直接の原因は売春婦にHIV感染者が多いことにあります。さらに原因を追求すると、タイでは売春が非常に盛んであることに行き当たります。実はタイでは一般の女性は、貞操観念が非常に強く、結婚までは純潔でいるので、男性たちの多くは、性のはけ口として売春婦を求めるのです。
そのような社会的状況が貧しい親たちの倫理観を狂わせているのでしょう。タイの貧しい親たちは、女の子が生まれると大喜びするそうです。なぜなら、その子を将来売春婦にして富を得ることができるからです。恐ろしいことに、親たちは娘を売春婦にすることにあまり心を痛めず、売春婦になる少女たちもそれは親孝行であると教え込まれ、心底そう信じているそうです。
「タイにおけるエイズ問題は根底にある貧しさが解決されなければならない。」と言う主張はごもっとも。しかし、貧しい人々の倫理観が変えられなくては根本的な解決には至らないでしょう。たとえ、タイの貧しさが一定の解決を得たとしても、売買春に対しての倫理観に変化がなければ、きっと男性たちは続けて売春婦のもとに通うでしょうし、極貧状態を克服した人々も、次はさらなる豊かさや安定を求めて自らの娘を売春婦とするでしょう。
ラバンやタイの貧しい親たちが娘に対してしていることは、家畜を育てて食肉業者に売る牧畜業と本質的に違いがありません。家畜を育てて、商品として売ることは、正当な経済活動です。しかし、人間の性を商品化することは、経済活動の手段としては不当です。たとえ、家族を貧しさから救う目的であっても、それは大きな罪と言わざるを得ません。
なぜなら、性は人格だからです。人格は目的とされるべきものであり、決して手段とされてはならないものだからです。ましてや、利潤追求のための手段(商品)とされてはならないのです。性を商品化することは、人格を売り渡すことに他らず、人間の尊厳、性の尊厳に著しく反する行為と言わざるを得ないでしょう。
豊かな国でのラバンの悪行
一方、国内に目を転じるなら、そこには日本独自の性の商品化があります。いわゆる援助交際です。他国での少女売春の場合は、通常その背後に大人の経営者の存在があります。その意味で性を売る少女自らが経営者となる援助交際は従来にない形態と言えるでしょう。これは、いわば性産業における個人経営です。
援助交際において、少女たちは加害者でもあり、同時に被害者でもあります。自らの性から人格を引き剥がし商品化しているのですから、彼女らは加害者です。しかし、その悪の対象が自らであり、その行為によって尊厳が傷つけられているのも当事者なのですから、彼女らは被害者でもあります。タイのように親の貧しさゆえの少女売春もあれば、日本のように少女本人の豊かさのための売春もあります。利益を得る者は違えど、性を金に換えるという本質に何ら変わりはないでしょう。
古今東西、絶えることなきラバンの悪行
いつの時代もどの社会においても、女性の性は商品的価値を持ちます。性はその人格性を引き剥がされた時、容易に商品となり得るものです。一方、男性側には常に需要があります。そこで、性を商品化し、儲けようと企む人々が登場するのが世の常。
そしてラバンの悪行は今もタイなど貧しい東南アジアの国々において引き継がれています。また、日本も例外ではありません。自らの性を商品とする女子中高生であれ、性産業の背後で利潤をむさぼる暴力団であれ、ポルノ産業を支える会社組織であれ、それを楽しむ消費者であれ、この日本社会において性の商品化を支える人々はすべてラバンの末裔と言うべきでしょう。
以前ある書物でこのような言葉に出会いました。「貧しさは人を苦しめ、豊かさは人を迷わせる。」この言葉、貧富と人間の関係を見事に言い表しています。貧しさの故に少女の性が商品化される社会もあれば、豊かさの故に迷い、性の本質を見失った結果、少女が自らの商品化する社会もあるということでしょう。
ラバンの悪行を痛み、その絶滅を祈り願うお互いでありたいと願いつつ、今回の一言。
古今東西、絶えることなきラバンの悪行。ラバンのカバンは小判でいっぱい。
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